紫音の夜 4~6
風子が葉月の胸元を指さして、「この小さな胸の中に」と言ったので、葉月は「それは言わないで」と笑いながら手を払い落とした。
部員の誰かが風子の名前を呼んだので、お礼と別れを言った。
この大らかな友人に何度気持ちを救われたかわからないと思いながら、うしろ姿を見送った。
伶次がウッドベースを抱えて外に出たので、葉月は大荷物の高木を手伝おうと思った。
先に片付いていたシンバルケースを肩にかけようとすると、高木に止められた。
というか、全く持ち上がらなかった。
「むちゃくちゃ重いだろ。それは俺が運ぶから、あっちの荷物を見ててくれない?」
高木は黒いリュックサックを指でしめすと、シンバルケースとスネアスタンドをいとも簡単に持ち上げて出て行った。
とてもドラマーにはなれそうもないと葉月は息を吐いた。
取り残された葉月は、レジカウンターの向かいの壁に飾ってある写真を眺めた。
よく見ると、高木はあちこちの写真に映っている。
とりわけ目を引くのはやはり、伶次そっくりの男性がギターを弾いているものだった。
あれから伶次のチョーカーもこっそりと観察してみたが、写真の人物がつけているのと同一のものだった。
戻ってきた高木が、隣に並んで立った。
葉月は指をさして聞いてみた。
「これ、高木さんですよね。手前の人って鞍石さんのお兄さんですか?」
「ああ、こっちの写真、見てみな。名前があるだろう」
額縁付き写真の下の小さな銅版にローマ字が浮かんでいた。
光って読みづらい。
「ショウタロ……クライシ……やっぱり兄弟だったんですね」
高木は写真に見入っている。葉月の声も耳に届いていないようだった。
そのまま写真の世界の中に吸いこまれそうなほど、眩しい目をして見つめていた。
「兄弟でライブとかしてるんですか?」
ようやく高木がふりむいた。少し微笑んで、目線を下にやった。
「祥太郎さんのことは、伶次に聞いた方がいい」
リュックサックを背負った高木は、両腕にスティックケースとスネアケースも抱え上げた。
ちょうど真夜と伶次も戻ってきたので、四人でマスターに挨拶をした。
高木のワンボックスカーに乗りこんで出発する頃には、午後十一時を過ぎていた。
終電間際の乗客でごった返す駅前に無数のタクシーが止まっている。
高木は丁寧にハンドルを操作しながら、国道へと車を走らせた。
パーディドから一番自宅に近い真夜が最初に下車した。
後部座席に座っていた伶次と葉月も順に家まで送ってくれるとのことだった。
伶次はずっと窓の外を見ていた。
車内は暗かったが、ときどき射し込む対向車線のライトが眩しかった。
ステージの照明に似て、わずらわしい思考を消し去ってくれる。
「鞍石さんって、お兄さんがいるんですね」
声は想像以上に車内に響いた。
伶次は葉月を見たものの無言だった。
返事を待っていると、伶次は運転席に身を乗り出して高木に何か言いたそうにした。
「俺じゃないって。パーディドにあった写真を葉月ちゃんが見つけたんだよ」
高木がブレーキを踏んだ反動で、伶次は座席に腰を下ろした。
「……どの写真?」
「下に名前のプレートがついている写真です」
「高木さん、あれ、最後のやつでしたっけ」
「そういやそうだな」
二人とも黙り込んでしまった。
ゆるやかなボサノヴァのリズムが流れている。
車が動き出した。エンジン音が車内の沈黙を破る。
「最後って、解散ライブとかですか?」
「いや……」
高木と伶次の言葉が重なった。
伶次の視線を感じたのか、高木が前をむいたまま首をふった。
写真を見た時と同じ微笑みを口元に浮かべている。
前かがみになっていた伶次は小さくうなずいた。
「俺の兄貴、二十のときに交通事故で死んだんだ」
逆光で伶次の表情がはっきりと見えない。
シルエットが闇に照らし出され、声だけが静かに空間を満たす。
伶次とむきあう間、何台もの車がパワーウィンドウの横を通り過ぎ、伶次の黒髪に光を当てていった。
「びっくりした?」
「いえ、あの……はい。びっくりしました」
光の加減で、伶次が笑ったのがわかった。
葉月の頭に大きな手のひらが乗る。
なんといっていいかわからず、瞳だけが落ち着きなく動いた。
「亡くなったのは七年前、俺が十五のときだ。あの写真は兄貴が最後にパーディドでやったときのものなんだ。高木さんは三年くらい兄貴とバンドを組んでたんだよ」
運転席からライターの火をつける音が聞こえた。かすかに煙が立ち上る。
「三年か……。もっと長いこと一緒にやってた気がするけどな」
「七年間、兄貴の時間は止まったままですからね。俺なんかいつの間にか兄貴の歳を抜いて二十二ですよ」
「俺はもう二十五だ」
二人は笑って言った。伶次の兄を知らない葉月は笑えなかった。
暗くてはっきりと見えなかったが、ふと真顔に戻った伶次の目が潤んでいるようだった。
「あのさ、篠山さん」
「はいっ!」
呼ばれると思っていなかったので、声がうわずってしまった。
手で口を押えていると、高木は肩で笑い、伶次は腹を押さえて笑いをこらえていた。
「すいません……声がでかくって」
「いや、いいんだけど。今から俺んちによらない?」
再びライブの失敗が頭をよぎった。
返事をためらっていると、信号待ちで高木がうしろをむいた。
「葉月ちゃん、行ってやってくれない? おまえ、ちゃんと家まで送れよ」
「わかってますよ」
正直、気が乗らなかった。高木の横顔に笑みが浮かび、車が発進した。
自宅近くの舗道で車を下りると、伶次はウッドベースを担いで細い私道に入っていった。
乗用車がぎりぎり一台通れるくらいの道の片側に、縦に長い三階建ての住宅が数軒立ち並んでいる。
向かいには築五十年くらいの立派な屋敷の垣根が連なっている。
伶次は家の鍵を開けると、もう家族が休んでいるからと狭い階段をウッドベースと共に静かに上がっていった。
「かなり散らかっているから、よけて歩いて」
彼の自室は三階の南側にあった。
入ってすぐのところに珍しい紅色のアップライトが鎮座している。
鍵盤の真下には大中小の三つのアンプが並んでいる。
スタンドには一軍バンドで使用しているフェンダーのジャズベースの他に、アコースティックギターとエレキギターまで立てられていた。
そばにはとりわけ大きくサビの浮いた銀色のスタンドがあり、伶次はソフトケースごとウッドベースを立てかけた。
これだけで八畳はあるはずの部屋がかなり狭い。
ガラス扉のついた本棚には音楽関係の雑誌や教則本の他に、大量のスコアが押しこまれている。
最下段には数えきれないほど古いカセットテープがつめこまれ、その前にCDが積み上げられていた。
勉強用のはずが物置になったライティングデスクには見分けのつかない数種類のシールドが無造作に置かれ、足元にあるギターのハードケースがほこりをかぶっている。
部屋の隅と言う隅を、本や紙の束が占領していた。