紫音の夜 4~6
デモ演奏を聴きながら何度も歌いこんだフレーズをそのままに歌った。
玄人からすると面白味がないかもしれないが、真夜のようにときどき変則的なことをすると大失敗する可能性もあったので、地道な方法を取った。
慎重に言葉を発し、ゆっくりと喉を使う。
少しずつ心が落ち着いていく。
かすれ気味だった声も、歌うほどに潤いをまして伸びやかになっていく。
真夜の音にもゆとりが出てきた。
テンポに忠実に吹いていた先ほどまでとは違い、たっぷりとスイングしている。
細かい動きにとらわれず、ベンドしては音を下から上にすくい上げる。
歌いながらつい聞きほれてしまう、胸をすくような美しい音色だ。
ラインのあちこちに葉月が歌ったメロディが姿を現す。
真夜のすぐ前に、ロングヘアの彼女がいた。
とろけるような表情をして、熱心に見上げている。
まるでそこに自分の表情が鏡写しになっているような気がして、葉月は思わず顔をそむけた。
三曲目を迎え、伶次は曲紹介をした。
合宿の夜に歌った『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』だ。
キィは自分の音域にあったEフラットに変更してもらった。
無理に高音を出す必要がなく、得意の低音が十分に使える。
喉を震わせて、言葉を歌にする。
観客ひとりひとりに語りかけるように、隣に立つ真夜の心に届くように――
この心を歌で満たして、永遠に歌わせて。尊敬するあなたのために――
喉の調子がいい。体も軽いし、響きのいい声が際限なくあふれ出る。
真夜は葉月の声よりもっと上質の、年季の入ったビブラートを奏でる。
アルトサックスのソロは2コーラスと半分まで続き、残りの半コーラスを葉月が歌ってラストを迎える予定になっている。
歌まであと半コーラスにさしかかったところで、出だしの歌詞を思い出そうとした。
フライ・ミー……ではなく、ユー・アー・オール……は二番の初めだ。
その一行前。たしか歌に関することだった。
考えている間にどんどん小節はせまってくる。
焦るほど、記憶の回路は停止したまま、動き出そうとしない。
手がかりすら思い出せない。
あと四小節。ずっと歌わせて、そんなフレーズのはずだ。
――歌わせて、私に。お願いだから。演奏、止まって!
願いもむなしく、残り半コーラスに入り、アルトサックスの音が消えた。
葉月の声は出ていない。
ウッドベースとドラムが決められたコードを消化していく。
リズムしか存在しない空間にたたずみ、冷や汗がこめかみを伝っていく。
観客の視線を感じ、歌わなければと思うが、喉の筋肉は完全に弛緩してしまっている。
ロングヘアの彼女が初めて葉月に視線をむける。どうして歌わないのと、茶色がかったどんぐり眼が訴えてくる。
自分の番だと言うことはわかっている。
視界がぼやける。
手の震えがとまらない。
不意にアルトサックスの音が響いた。
歌のラインを少し崩したフレーズだ。
まだソロは終わってなかったんですよ、と言いたげな調子で真夜は吹いている。
肩の力が抜けていく。真夜を見つめながら、必死の思いで頭の中にメロディを流しこんだ。
歌い始める前のような、少し鼓動は早いけれど落ち着いた状態に戻っていく。
コーラスがもう終わるというところで真夜が目配せをしてきた。
葉月はマイクを握りなおしてうなずいた。
最後の一行だけ歌うと、なんとかエンドロールを迎えた。
拍手と共に、葉月は深く頭を下げた。観客にというよりも、真夜に向かって。
まぶたにたまった涙がこぼれ落ちそうになった。
メンバー紹介のあと、最後の一曲とアンコールをやったが、意識は離脱しているような状態だった。
同じ失敗を犯すまいと歌詞ばかり考え、演奏を楽しむ余裕は少しもなかった。
風子がかけよってきて「最高だったよー!」と言ってくれたが、言葉は鼓膜の外で止まっていた。
きちんとお礼を言ったのかどうかも定かではなかった。
部員たちに賞賛をもらうたび、失敗が頭をよぎった。
真夜は例の彼女に抱きつかれながら、仲間たちに照れ笑いを見せていた。葉月はいつまでもマイクスタンドの前に立ち尽くしていた。
ほとんどの観客が店から出るのを見届けてから、後片付けを始めた。
いつの間にかウッドベースをケースにしまっていた伶次はマスターと話しこみ、高木は黙々とドラムセットを解体していた。
真夜は店の奥の暗がりで楽器を片づけていた。
「おつかれさま。さっきは……」
葉月がそう言かけたとき、指先で背中をつつかれる感触があった。
満面の笑みを見せたのはロングヘアの彼女だった。
リスのように愛嬌のあるどんぐり眼を輝かせて葉月に笑いかけてくる。
「おつかれさまでーす。どうしてフライミーの最後、歌わなかったんですか?
真夜くんがとっさにフォローに入ったの、ばればれですよ」
彼女は全く笑みを崩さずに言い切った。
足元から筋肉が硬直してくるのを感じながら葉月は頭を下げた。
「歌詞を思い出せなかったんです。失態を見せて申し訳ないです」
「謝る必要なんてないですよ。これきりでヴォーカルをやめちゃえばいいんですから。私は真夜くんの演奏を聴きに来てるんです。あなたが横に立つ資格なんてないですよ」
鼓膜の奥で鈍い音が鳴っている。
両側から世界が閉じてくる感覚がして、こぶしが震えた。
真夜がアルトサックスのケースを持って立ち上がった。
「違うって言ってるだろ。僕がソロの長さを間違えたの。何回言えばわかるんだよ」
「ぜーったいそんなのウソ。この人が歌詞をど忘れしたんでしょ」
栗色の髪を揺らしながら彼女が真夜の腕にしがみつくと、真夜はそれをふり払って歩き出した。
「うるさい、うるさい。おまえは関係ないんだからさっさと帰れよ」
いつになく強い口調に葉月は目を丸くしていたが、彼女にとっては慣れっこなのか、なんだかんだと言いながら真夜にしがみついて離れなかった。
「とにかく真夜くんに迷惑かけないでくださいよね」
ふり向きざまにそう言ったその顔は、小動物のように愛くるしい先ほどの女性と同一人物だとは思えなかった。
「まーあ、きっつい性格。女に激しく嫌われるタイプね」
気付くと隣に風子が立っていた。真夜と彼女が出て行くのを見てから、風子はわかりやすく舌を出した。
「迷惑……かな。やっぱり」
「真に受けてどうすんのよ。あれは女の嫉妬よ。まあ確かに、目の前であれだけ息ぴったりに演奏されちゃあ、やきもちも焼きたくなるね」
「そう……だった?」
思わぬ言葉に拍子抜けしていると、風子が肩を持った。
「歌と楽器があんなに呼応するんだって知らなかった。お互いの音が共鳴しあって宇宙が広がっていくっていうか。もちろん、鞍石さんと高木さんのバックがあってこそだと思うけど」
風子がそう言いながら大げさに腕を広げて宇宙を表現しようとしたので、葉月は吹き出してしまった。
「真実がこの胸の中にあるなら、それでいいじゃない」