紫音の夜 4~6
4.レット・ミー・シング
真夜がアルトサックスを持ってステージに立つと、店内が暗くなった。
BGMが徐々にフェードアウトし、観客の視線が集まっていく。
高木がスネアドラムを叩きおろし、続いてバスドラムのペダルを踏んだのを合図に客席が静まりかえった。
一時の静寂が訪れる。
スポットライトが真夜の体を包む。
アルトサックスのキィを握ったまま、天井を仰いで目を細める。
観客席に座る葉月たちをとりまく空気が真夜にむかって吸いこまれていく。
カウントからイントロなしに『ストレート・ノー・チェイサー』が始まった。
祈るような気持ちで真夜を見つめる。
どうか失敗しませんように、無事テーマが終わりますようにと何度も唱えた。
葉月の心配をよそに、真夜は淡々と吹きこなしている。
あせりも戸惑いもない。
いつチューニングしたのだと聞きたくなるほどピッチがいい。
伶次と高木にも真夜の失敗を恐れている様子は全くない。
テーマはあっという間に終わり、問題なくアルトサックスのソロに入った。
真夜のアドリブには前もって決めたフレーズがあり、それを組み合わせたり崩したりしながら演奏をする。
その場の思いつきはほとんど聞いたことがなかった。
コードの流れに乗って即興演奏するのが一般的なアドリブだが、決めたものを何度も吹きこんでいく方が真夜の性にあっているようだった。
耳慣れた高速フレーズがかけ抜けていく。
ものの十秒そこらで百五十ちかい音を鳴らすパッセージになっても、真夜はほとんど音をはずさない。
いざ本番になると完璧に近い出来栄えを見せるのに、直前になってあんなに嫌がるのは何故なのだろう。
締めのテーマもうまくいき、好調な出だしとなった。
曲間のMCは伶次が担当した。
伶次の学外ライブを見るのは初めてだったが、慣れているのか、観客の心を掴みながら話をするのがうまかった。
MC中の人なつっこい笑顔は、曲に入ると一変して厳しいものに変わった。
ひとりで黙々と練習しているときに似た、近よりがたいオーラを放っている。
真夜のソロに入ると、伶次のつぐんでいた口元が少しずつほどけていった。
ときどき高木と視線を交わし、時おり笑みを浮かべる。
ベーシストらしいがっしりとした肩と太い二の腕。
意外なほど白くて細い指が、確実に弦をとらえていく。
アルトサックスのフレーズが加速すると、高木が二枚のクラッシュシンバルを交互に叩きながらあおった。
伶次はウッドベースに覆いかぶさるようにしてハイポジションの音を立て続けに鳴らす。
真夜は狂ったように指を動かした。
両肩を上げる。
得意のフラジオが葉月の体に突き抜け、全身の感覚器官が騒ぎだす。
まるで自分がその音を鳴らしているような錯覚に陥る。
観客はみなそれぞれにリズムを取り、足を踏み、体を揺らす。
真夜が生み出す大潮の渦の中に飲みこまれていく。
鳴り止まない拍手の中、前半のステージが終わった。
二十分の休憩をはさんで、後半のステージが始まる。
その間に従業員はあわただしく客席を行き来しながら、食器をさげたり注文を取ったりする。
葉月も風子や他の友人たちの感想を聞いたりしていたが、ほとんど耳に入らず落ち着かなかった。
十分ほどで切り上げて奥の席に戻り、歌詞を広げた。
何度確認しても不安な気持ちはおさまらない。
閉じては開いてをくりかえしていると、隣に伶次が座った。
「緊張してる?」
「もう……帰りたくなってきました」
「真夜じゃあるまいし。大丈夫だって。ほら、どーんとかまえて」
伶次は笑って葉月の背中を叩いた。
「緊張するのがふつうさ。俺もするし、高木さんもする。それでいいんだよ。お客さんにいい演奏を聞かせられる。歌詞ばっかり見てると余計に緊張するよ。本番前は好きな曲を歌ってるくらいが丁度いいんだ」
そう言われても、本番以外の曲は咄嗟には思い浮かばなかった。
紙を握る両手に不自然なくらい力が入っていて、閉じることもできない。
伶次は葉月の指をほどくと、さっと紙を取り上げてしまった。
「はい、おしまい。せっかくクラブの連中が来てくれてるんだ。話しに行こう」
伶次は先に立ち上がって葉月の腕を引っぱった。
「サックスを吹く時もそんなに緊張してるの?」
「いえ……ビッグバンドの時は、一斉に音を出すんで安心感があるというか……」
「まあたしかに、ホーンセクションの場合はそれもあるね。真夜をコンボに誘った時も、似たようなことを言ってたから」
伶次は葉月の両肩をつかんで揺らした。
肩から手のひらの温もりが伝わってくる。
「リラックス、リラックス。いい声してるんだから、自信持って」
その言葉に、体中に生気がみなぎっていくようだった。
いい声だと、本当にそう思ってくれているのだろうか。
どうしようもなく緊張するのは、自分だけでなく彼らも同じなのだろうか――
聞き返す間もなく、葉月は伶次に引きずられていった。
開始の時間が迫り、葉月はステージに向かった。
といってもそこはもともと客席が置いてあった場所で、段差などない。
客席の方をむいた途端、葉月は立ちくらみそうになった。
「ものすごく近い……」
手を伸ばせば触れられるほど至近距離に、客がずらりと座っている。
真夜はすぐ隣に立ってアルトサックスに息を吹きこみ始めた。
「よく平気で吹けるね……」
「平気なわけないよ。緊張で死にそうなんだから」
ヴォーカル用マイクを取ろうとすると、一番近くにいる三十代の女性と目があった。
こちらを見上げてそらそうとしない。
葉月が先に視線をかわすと、今度は違う人と目があった。
どこを見ても誰かの目線とぶつかってしまう。
耐えられなくなって右ななめうしろに顔をふると、伶次がじっと見ていた。
「あの、みんなこっちを見てるんですけど」
「そりゃあね。一番見るのって、ヴォーカルだろ?」
ステージ用の照明がついて、思わず目を閉じた。
客席後方にあるスポットライトがこちらに光を当てているらしい。顔を上げると視界が真っ白になった。
客の顔が見えなくなり、視線も気にならなくなった。
「いいか」
伶次の声にふりむいて、小さくうなずいた。
まだ少し足が震えているが、大丈夫だ、自信をもてばと自分に言い聞かせた。
伶次と高木が支えてくれるし、すぐ隣には真夜がいる。
真夜がストラップを引き上げてマウスピースに口を当てると、カウントが始まった。
基本の構成は、イントロは真夜が吹き、テーマから歌が始まる。
歌詞に合わせて一回か二回くりかえしたあと、アルトサックスのソロに入る。
曲によってはウッドベースやドラムのソロも組んでいる。
最後にテーマに戻って葉月が歌い、エンドロールを迎えることになっている。
曲によって多少の違いはあるが、楽器でも歌ものでも大差はない。
他はコーラス数の増減やキィチェンジで変化をつけていく。
葉月にあわせた単純な構成で、曲の原キィから声域にあったキィに移調もしてもらっている。