紫音の夜 1~3
不意に誰か付き合っている女性がいるかもしれない、という考えが頭の中をよぎったが、飲みこんでかきけしてしまうことにした。
葉月はマウスピースの吹き口にリードを重ね、リガチャーのネジを閉めながら何気なく言ってみた。
「よかったら一緒に行かない?」
「いいよ」
真夜はあっさりとそう言ってチケットを返してきた。
「いいの?」
声がうわずってしまった。こうも簡単にOKされてしまうと、かえって対応に困る。
「じゃあ……当日の七時に店の前でいい?」
「うん」
真夜はマウスピースを咥えて『メイデン・ヴォヤージュ』を吹き始めた。
彼がどうしてもやりたいと言って押し切った曲だ。
凪いだ海に漂う船のようなメロディライン。
一緒に吹いてみようと思って、ずれたストラップの長さを調節していると、伶次が咳をしながら第二スタジオに入ってきた。
真夜に用事があるようだった。
葉月は居づらさを感じて、必要のないテンポマシーンを取りに行くふりをしてスタジオを出た。
合宿の夜、真夜が伶次の物真似の前にえへんと咳をした理由がわかった。
真夏だというのに、伶次は練習中もよく咳をしている。
***
一週間後、『パーディド』の最寄り駅からロータリーに向かって歩いていると、大きなヘッドフォンを頭につけて前を歩く真夜の姿を見つけた。
夕刻の駅前は乗客でごった返していて真っ直ぐに歩くこともままならない。
レモンイエローのTシャツに七分丈のジーンズをはいた真夜は、すいすいと人の波の中を進んでいく。
イヤーパットだけでも手のひらほどの大きさのあるヘッドフォンをつけていては、名前を呼んでも気づかないだろう。
葉月は何度もサンダルのかかとを踏まれたり、肩を押されたりしながら真夜のあとを追った。
街頭に出て最初の信号が赤になり、ようやく彼の肩をつかむことができた。
真夜はふりかえりながら肩をうしろにひっこめた。
しばらく表情をこわばらせたままだったが、「なあんだ、篠山さんか。キャッチのお兄さんかと思った」と言って、ヘッドフォンを首まで下げた。
目の前にそびえたつガラス張りのファッションビルに夕焼けが映し出される。
眩しさに目がくらみながら、人々は一斉に横断歩道を渡り始める。
すぐ隣を真夜が歩いている。
彼の頬に夕日が差し、日の当たる時間に外で顔を合わせたのは初めてだと気づく。
横断歩道を渡りきらないうちに、信号が点滅し始めた。
二人はあわてて走り始める。
室内の照明ではいつも青白くみえていた彼の皮膚が、雑踏の中で色づいて活動している。
水槽のようにせまい空間の中でアルトサックスを吹いている姿の他は、どんな日常を送っているのか未だに知らないままだった。
小さなレストラン・バー『パーディド』に着くと、レジカウンターにいた黒ひげのマスターが真夜ににっこりと笑いかけた。
真夜は例の大げさなおじぎを披露する。
「ヴォーカルの篠山さんです。よろしくお願いします」
葉月があわてて頭を下げると、「ああ、伶次から聞いているよ」と微笑みかけてくれた。
その優しい口調から、彼らの親密さがうかがえるような、温かみのある声をしていた。
すでに半分ほど照明が落とされた店内は薄暗く、淡いオレンジ色の光で満たされている。
ワックスで磨かれた古いスギ材のフローリングは踏みしめると心地よい音が鳴る。
天井の低い店内に、角が落ちて丸みを帯びたテーブルがしきつめられ、赤いクロスの上でキャンドルが揺らめいている。
入ってすぐの煉瓦風の壁にはサイン入りの写真やレコードのジャケットが所せましと展示されていた。
中には銀板の名前入りプレートがついた額縁もある。
白黒で印刷された写真の中に、高校時代の真夜を見つけた。
一人で含み笑いをしていると、マスターと話をしていたはずの真夜が、葉月を客席まで引きずっていった。
写真に映る真夜は眼鏡をかけていて、ずいぶんと眉が太かった。
弓なりの細くていい形をした今の風貌とは大違いだ。
わずかに剃り残しのある眉を指さすと、「見ないで下さいよ」と恥ずかしそうに広い額を両手で覆った。
真夜がトイレに立ったすきに、また写真を見に行った。
アルトサックスを吹く姿はほとんど変わっていない。
彼のトレードマークともいえる、首の付け根から前に三十度ほど傾斜する猫背の姿勢だ。
うしろに小さく伶次と高木も映っている。
ふと隣の写真に目をやると、そこにはギターを弾きながらマイクの前に立っている伶次の姿があった。
首にはいつものチョーカーをつけ、口を大きく開けて歌っているようにも見える。
器用な人なんだなと思ったが、ドラムを叩く高木の姿に違和感をおぼえた。
ギターを下げる伶次は二十前後なのに、うしろに映る高木は高校生くらいに見えた。
真夜の写真と見比べてみても、あきらかに高木の方が年齢を下回っている。
首をかしげていると、戻ってきた真夜がため息をつきながら言った。
「かんべんしてよ、もう」
「あのさ……鞍石さんってお兄さんいるのかな」
「あーうん」
「その人ってギターとかヴォーカルやってる?」
「そうですね」
真夜は曖昧に答えながら視線をそらし、客席に戻ってしまった。
兄弟がいるなら納得がいくのに、何か言いにくいことでもあるのか、真夜はそれきり口を閉ざしてしまった。
店内の照明が落とされてプレイヤーが登場すると、拍手と共に演奏が始まった。
一曲目から波のうねりに似た空間へ誘われる。
体を揺らすライドシンバルのリズム、足元を浮かせるベースの振動。
そのビートに観客たちが吐く息を織り交ぜて、歌声が店内の隅々まで広がっていく。
知っている曲が始まると葉月は口ずさみ、銅褐色の光の中で揺れるヴォーカリストに自分の姿を重ねていた。
高木のスネアドラムのタイミングと伶次のランニングベースがぴたりと合い、真夜が荒々しい音を放つ。
その中で葉月は手を広げて、充満する熱気を歌声に変えていく――
目を開くと現実に引き戻された。
ステージに立っているのはアーティスト名しか知らない三十代のヴォーカリストだ。
休憩をはさみ、次に現れたのはアルトサックスを持った年配のプレイヤーだった。
真夜が無理に背筋を伸ばそうとしたのがわかって、思わず笑ってしまった。
ライブの後半には、デューク・エリントン・オーケストラの演奏で有名になった『パーディド』が流れた。
どこからかヒュウっと口笛の音が聞こえる。
数コーラスを吹いただけで踊りたくようなテンポは静まり、偶然にも『メイデン・ヴォヤージュ』が奏でられる。
この曲はハービー・ハンコックがモードの手法で作った曲で、最初から最後まで単調な8ビートが流れる。
甘いアルトサックスの音色で、起伏の少ないフレーズが何度もくりかえされる。
となりに座る真夜はカシスオレンジのグラスに手をかけたまま、微動だにしなかった。
真夜もステージに立つ自分の姿を想像しながら聞いているのだろうか。