紫音の夜 1~3
それとも彼にとって何時間吹いても飽き足りないこの曲の新しいアドリブの奏法を考えているのだろうか。
いつになく真剣なまなざしをむけている真夜の横顔は、遠く手の届かない場所にあるようだった。
「じゃあ今度、よろしくね」
黒ひげのマスターは真夜にそう声をかけたあと、微笑みながらも葉月の顔をじっと見てた。
葉月は壁にはられた写真のことが気になりながらも、真夜に続いて外に出た。
夏の終わりの夜風が、飲みなれない酒に火照った頬を冷やしてくれる。
観客たちの熱気と、鼓膜の奥で鳴り続ける演奏の余韻が全身にまとわりついている。
このまま帰路についてしまうのが惜しかった。
肝心なことも聞けていない。
思惑とは裏腹にさっさと前を歩いていた真夜が、円筒形のパレルバッグから携帯電話を取り出して、指先で何やら打ち始めた。
じっと見ているのも悪い気がして、葉月も自分の携帯電話を取り出してみたが、メッセージも着信もなかった。
「彼女から?」
「うん」
それとなく会話をふってみたつもりが、画面に集中していた真夜はあっさりと返答した。
「やっぱり彼女いるんだ。それなら断ってくれてもよかったのに」
笑って軽く言ったつもりだったが、真夜の表情が凍りついていた。
倍の速度で画面をタッチしたあと、パレルバッグの底に押しこんでしまった。
「いません。今のは気の迷いです」
「何よそれ。うんって言ったじゃない」
「きっと僕の背後霊がいたずらしたんだ」
真夜は両手をぶらぶらさせながら、白目を見せて舌をだした。幽霊のつもりなのだろうか。
話をごまかそうとする気配は察知できたので、「どっちでもいいんだけどね」と言って追及はしないことにした。
葉月は真夜の前を歩き出した。『パーディド』は長い商店街の中央にあり、ずっと先までアーケードが続いている。
ほとんどの商店は閉まっているが、酒を扱っていそうなバーや数軒の居酒屋が、けばけばしいネオンを光らせている。
じくじくと胸が痛むのを感じながら足早に歩く。
ときどき真夜が追いついてきて、目を見開きながら首をふった。
口を閉じたままでも、何を意味しているのかは伝わってきた。
応答しないでいると、真夜は深夜営業しているファーストフード店を指さして言った。
「おごります。神よ、お赦しください」
「私は神じゃないよ」
そう言いながらも、ライブ中はワンドリンクしか注文しなかったので腹は減っていた。
昼間の太陽よりも眩しい光に誘われるように、真夜と共に店の中に入っていった。
頭の中ではくりかえし『パーディド』が流れている。
演奏者のイメージは真夜と伶次と高木だったが、メンバーの中に葉月は存在せず、観客席で見ているだけだった。
「やめといた方がいいって、どういう意味だったの?」
レジ前の列に並びながら、葉月は言った。言葉が重くならないように気をつけたつもりだったが、思った以上に嫌な響きをしていた。
「なんのこと?」
「流れ星を見た、あのときのこと」
「そんなこと言ったっけ」
「言いました。二回も」
「山の地縛霊が僕に言わせたんだよ、きっと」
深い意味はないのか、本当に忘れてしまったのか、どちらにしろ本気で答えるつもりはないらしい。
葉月は頭をふって、鼓膜の奥に流れる『パーディド』のスイッチをオフにした。
「じゃあやめないからね」
「神のお好きになさってください」
真夜は手のひらを合わせて拝むようなポーズをとった。
わずらわしい思考を一掃してしまいたかったが、ライブの音声が絶え間なく脳内に響き続けて、思うようにはいかなかった。