冬空からの贈り物
「俺なんか何回も無視されて、クソガキには殴られて、そのたびに心挫けそうっていうか……こりゃ真面目にやっても意味ねーなって感じで……」
「そうだね…………けどこんな経験なかなかできる事じゃないし、あたしはすっごく楽しかったな」
「……」
俺には彼女の言っている事が理解できなかった。……だから戸惑った。
「なんで……なんでそんなに頑張るんだ? あの感じだったらある程度適当にやってても大丈夫だよ。別に見張られてる感じでもなかったし、給料だって払ってくれるって!」
俺は興奮して声を荒げていた。息が乱れて、どこか怯えて、まるで自分という存在がかき乱されていくような感覚だった。
「……あっ、もうこんな時間だよ、そろそろ事務所にもどろ」
彼女は相変わらずの笑顔を俺に向けてそう言った。
結局その質問に対する答えを聞く事は出来なかった。
どこかぎくしゃくした雰囲気のまま二人して事務所に向かったのはいいが、二人とも段ボールの中身をほとんど配れていないという惨敗っぷりだったので例のおっさんに殺されるのではないかという不安が、事務所に向かうまでの一歩を鉄球でつながれているように重くしていた。
しかし人は見た目によらなかったみたいで、おっさんは返却されたティッシュの山をみつめながら意外にも気さくな態度で
「まぁ初めてだからしゃーねぇな、次またここに来る機会があったらもうちょっと頑張ってくれよ」と言って封筒に入った一万円札を俺たち二人に手渡してくれた。
俺は一万円札入りの封筒を手に持ち思い詰めた顔をしていると、彼女が隣でサンタから私服に着替えたばかりの俺のダウンジャケットの裾を
クイクイと引っ張っていた。俺は彼女を見てうんと頷き二人で、
「ありがとうございました」
とおっさんに頭を下げた。
「遅くまでご苦労さん」
そしてにこっと笑って送り返してくれた。実はいい人だったんだな。俺たちはおっさんの笑顔に感謝をしながら事務所を後にした。
外に出る頃にはもう夜の十時を過ぎていた。吹き続けている風もいつの間にかさらに寒さを増しているように感じる。
俺は事務所の前に停めてあった今にも変形しそうなおんぼろオレンジチャリの鍵をカチャリと開けて道路の前まで引っ張りだし、よっこらせと勢いよく股がった。がその瞬間、肩に何かの感触とチャリの後部にわずかな重さを感じた。
「よし、レッツゴー」
振り返ると彼女が手を振りかざし、今から探検に出かける冒険家のような好奇心に満ちあふれた表情を浮かべていた。俺の肩に手をかけ、チャリに取り付けられた棒に足を乗せてバランスをとっている。ちょっとまて、一度この状況を整理してみよう。夜中に男のチャリに女が乗って走り出す。こ、これは……もしかして……よく映画やドラマやアニメや漫画やラノベやギャルゲーで鉄板中の鉄板。夢にまで見たチャリ二人乗りというやつではないのか!!!!!
「ねぇーいいでしょ」
俺はとっさにありとあらゆる場所をつねってみたが全て痛かった。うん、夢じゃない。
「どすこいココアおごってあげたしさ。だーかーら家まで送ってー」
「うおぉー!!! お安い御用だぁぁー!!!」
俺はペダルを踏み込む足に、女っ気が皆無だった十六年の切実な思いを込めて夜の街を爆走していった。
住宅街やスーパーを通り過ぎながら、心臓が大音量で悲鳴を上げていた。原因はと言うと元から体力がないのも多少はあるだろうが、それ以上に精神的な部分が多くを占めていたと思われる。
透き通るような話し声は耳元の近くで聞こえてゾクッとするし、たまに道がデコボコしてお互いの体が密着する時は直に彼女の体温を感じてしまうし、つい鼻に入ってくる一体どこから放出されているんだという彼女の謎の良い香りの前では冷静や平常心という言葉で対抗するなど到底無理な話で俺は、いつの間にか目眩がするのを必死で堪えるという謎の戦いを繰り広げていた。おかげで道中、何を話したんだかさっぱり覚えてない……
「着いたー!」
「あっち」とか「こっち」とか後ろから聞こえてくる声に従ってチャリを走らせていると、家と呼ぶにはほど遠い緑に囲まれた小さな丘のような場所に辿り着いていた。
彼女はチャリから下りると、一目散に駆けて行って自分の納得いく位置で足を止めていた。
上は温かそうな上品で茶色のコートだったが、下はチェックの赤いミニスカートに黒のニーハイという見るからに寒そうな格好だ。けれどあのはしゃぎようからして、彼女にはそんな事は大してどうでもいいみたいだった。
俺もゆっくりと彼女の隣に近づくと、突然飛び込んでくる光景に目を奪われていた。
圧巻というのはこういう事を言うのだろう。目の前に広がっていたのは、自分は今どこに立っているのかわからなくなってしまいそうな、夜の街の姿だった。近くで見る街のネオンにはあまりいい印象はなかったが、こうやって角度を変えて見てみるとどこか別の場所のように綺麗で幻想的だった。
「いいでしょ? ここはこの街が一望できるんだ」
「あぁ、すごい……」
————お互い黙った時間がどれだけ続いていたのか、先に静寂を破ったのは彼女だった。
「ね、さっきの話」
「ん?」
「とぼけないでよ。何でそんなにお前は頑張るんだって言ってたよね?」
「あぁ……」
「……別に頑張ってるつもりなんてないんだよ、あたし」
彼女は真っすぐ前を見つめたまま、静かにそうつぶやいた。
「わからない……俺の目から見れば君は精一杯頑張ってた。大慌てで走り回って、無視されても通行人に声かけて、なのにあのティッシュ配りの成果だって適当にやってた俺とあんまり変わんなかったんだ。それでも君は何事もなかったみたいに笑顔で、前向きで…………」
「……」
「一生懸命やってもまた結果が出ないかもしれない、深く入り込んだせいで大事な何かが壊れてしまうかもしれない、下手したら自分が傷つく事だってある……君は…………怖くないのかよ?」
俺は初めて自分以外の誰かにずっと思い続けていた疑問をぶつけていた。
彼女は俺の方を向いて少し笑いながらも、けど真剣な眼差しで、
「怖いよ……けど何にもないのが一番怖いって思うから……」
「え?」
「あたしさもともと体が弱くて、中学に入学してからずっと入院してた事があったんだ。……みんなが文化祭で一生懸命になってる時も、修学旅行で楽しんでる時も、自分はずっと病院のベッドの中でただ窓から外を眺めてた。それで想像するんだ。今日はこんな楽しい事があったんだろうなぁとか、こんな大変な事があったんだろうなぁとか。けどそんな想像だけじゃ何にも変わんなくて、やっと体調が落ち着いて退院した頃にはびっくりするぐらいの時間が流れてた。久しぶりに入った教室にはもう自分の居場所なんてなくて、みんなの中にある思い出をあたしは持ってないんだって……病院にいる間、大事な何かを落っことしちゃったんだって……ぽっかり心に穴が開いたみたいだった。結局、ちゃんと教室で過ごしたのはほんの数ヶ月で卒業式で証書をもらった時あたし思ったんだ……」
彼女は唇を噛み締め、そしてゆっくりと続けた。