社会批評
暴力について
人間は、必ず一定の場所を占めて生存する。これは「存在」というよりも「暴力」と言った方が正しいように思える。なぜなら、人間はただ存在するだけでなく、自らの縄張りを支配して生存を確保するからだ。生存を確保するための場所や領域の支配、これを「暴力」と呼ぶことにしよう。なぜなら、そこには人間の欲望が働いているし、そこから他者との争いが生じる可能性があるからだ。それ以前に、特定の領域に支配権を主張すること自体に、その領域への暴力的な侵入が見て取れる。
暴力はただ人間の存在する場所だけに及ぶものではない。人間は他者と様々な関係のネットワークを織り上げる。しかもその場合、人間はたいてい他者に対して優越しようとする。だから、人間は、他者との関係に位置を占める場合でも、そこに暴力的に位置を占めるのである。他者との一定の関係にある、他者に対して一定の位置を占める、それだけで人間は他者に対して暴力的な存在になる。なぜなら、人間は他者との関係を支配しようとするし、あわよくば他者に優越しようとするからである。人間は社会的生存のため他者と関係し、その関係を支配することによる暴力を行使するのである。
だが、この暴力は一方的なものではない。暴力は多くの場合許されている。人間が場所的・関係的に暴力的に存在すると言っても、それが他者や社会の支配下にあれば何ら問題はないのである。つまり、人間は暴力を行使する存在であると同時に暴力を行使される存在である。人間がたとえ暴力的に存在しても、そこに他者や社会からの支配が及べば、そこに暴力の競合が起こり、暴力は互いに中和される。人間は特定の領域を支配すると同時に、その領域を他者や社会の支配、つまり暴力に一定程度譲り渡すのである。このようにして、人間は場所的・関係的暴力を、他者や社会と互いに及ぼし合い、中和することによって、他者や社会と折り合いをつけている。
さて、人間の暴力性があらわになるのは、他者や社会の支配を受け付けないときである。自己のみが特権的に特定の縄張りを支配したい、自己のみが特権的に他者に優越したい、そのような欲望をあらわにするとき、人間の暴力性があらわになる。他者や社会からの対抗支配をはねのけ、純粋に自己が特定の領域を所有したがるとき、人間はとりわけ暴力的になる。そのとき、他者や社会の暴力と緊張状態が生じ、争いが生じる。そこで初めて物理的な意味での暴力が行使される可能性が生じるし、関係を断ち切るなど関係的な意味での暴力も生じうる。
日常的な意味で用いられる「暴力」は、遡ってみると、人間が特定の領域に位置を占め生存を図るという基本的なところに既に萌芽がみられるのである。