社会批評
「政治」と「社会」の違い
政治的な活動をしているからと言って、その人が社会に対して適切な意識を持ち、社会に対して深い知識を有しているとは限らない。普通に言われる「政治」と「社会」の間には大きな隔たりがあると私は考えている。この点、幾分単純に図式化してみようと思う。もちろん、こんな図式化はそれほど役に立たないが、この問題に対して議論していく上でのたたき台として、簡単に整理してみる。
政治的な活動をしたり、政治的言説を好んだりする人は、何に突き動かされているのであろうか。一番は感情である。社会の原理を理解し、もろもろの立場を十分吟味したうえで理性的に活動している人ももちろんたくさんいる。だが、多くの政治に流されやすい人というのは、概して感情的な人々である。良く言えば情熱的で正義感の強い人である。社会において何らかの不正がなされていると感じるとき、政治的な人々は義憤を感じ、活動を始めるのである。政治とはこのように、倫理的であり、感情的であり、実践的である。
それに対して、社会というものを理解するにあたって特に感情は必要でないし、何らかの行動を起こす必要もない。社会派の人々を突き動かすのは、社会意識であり、知的好奇心である。社会派の人々は、自らが社会を形成し、また社会が自らを形成するという循環を知り尽くしている、適切な社会意識を持った人々である。それゆえ、社会の動向や構造を知ることは彼ら自身を知ることにほかならず、強く興味の対象となるのである。社会派の人々は科学的に社会を眺め、理性的に判断を下す。感情に流されることはなく、理路整然と主張を通す。
政治とは感情によって突き動かされるパワーゲームであり、社会とは科学の対象となる構造体である。政治的な人々と社会派の人々はそれぞれに優れた点と劣っている点を持っているので、相互に補い合うか、一人の人間がその両方を統合する必要がある。政治的な人々は社会意識を適切に持たず、感情に流されることが多く、科学的な意見を持たない。社会派の人々は情熱が足らず、頭でっかちであり、傍観者的である。両者を統合して、社会に対する明敏な意識を持つと同時に社会の構造を科学的に理解したうえで、現実に政治的に思慮深い発言と議論を重ねていき、何らかの行動を起こすに至る、そのような政治派と社会派の統合が望まれる。