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青空夏影 面影は渓流に溶け入りて

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青空夏影 面影は渓流に溶け入りて

                     










 1、小さな港町


 別にその場所を選んだことに理由などなかった。
 人口が少なくて、ある程度過疎化が進んでいる場所ならどこでもよかった。
 見慣れた都会の風景を離れ、しばらくが経った頃、周囲の景色はいつの間にか緑に染まり、青々とした木々が車のウィンドウを横切っていった。
 私はその光景を高級車の後部座席から見つめながら、セーラー服のリボンをそっと外した。
「本当にこれでよかったのか」
 海が見えた時、『あの人』は私にそう聞いてきた。
 私はその問いには答えず、過ぎ去ることのない遠くの海に、意味のない視線を送っていた。
 その場所には、私が見たこともない景色が広がっていた。
 海と切り立った山がひたすら続いていて、ビルの姿など、どこにも見当たらない。
 むせ返るような緑の匂いと潮の匂いが入り混じり、都会の喧騒よりもうるさい蝉の鳴き声が山全体に木霊していた。
 時折、山裾にひっそりと佇む古びた民家に、人が住んでいるとは、私には思えなかった。
 あの無機物で溢れかえった街に生きてきた私にとって、それらは何もかもが新しくて、新鮮な感覚だった。
 やがて、小さな集落が見えた。
 山から海にかけて、少し平らになった場所に作られた、みすぼらしい漁村だった。
 平成の大合併を経て、地図上では町という名を冠してはいても、それを名乗るにはおこがましいくらい小さな港町だ。
 廃屋のような建物ばかりが立ち並び、全体的にくろずんた街中は閑散としていて、まるで海辺にしがみつく干からびた老人のようだった。
 やがて車は一軒の古い家屋の前に停車した。
「着いたぞ」
 先に『あの人』が車から降り、私もそれに続いてその町に足を踏み降ろした。
 熱気が私のセーラー服をかけ抜け、汗がぶわっと噴出すような感覚がした。
 古い家屋は、長い間潮風に当てられていたのか、酷く黒ずみ、台風でも来れば、崩れてしまいそうな気さえする木造の一軒家だった。
『あの人』は持っていた鍵で家の戸を開け、中を覗いた後、「引越しは済んでいるようだな。後は好きにしろ」と言って、私に鍵を投げ渡し、きびすを返した足でそのまま車に乗り込んだ。
 助手席の窓が開き、『あの人』の顔が見えた。
「これはお前が望んだ事だ。後悔はするなよ」
 そんな捨て台詞を残して『あの人』は車をユーターンさせると、排煙を巻き上げながら、去って行った。
 後悔などという言葉は、私には意味をなさなかった。
 私は世間一般で言われる父親という人物を、『あの人』と呼ぶことに決心した時点で、今回のことを後悔するつもりなんて微塵もなかったからだ。
 私は車を最後まで見送ることもせず、古びた家屋の方に視線を戻した。
 その家屋は遠くの一点を見つめていた。
 その先には果てしない水平線と、それを隔てた、終わらない青空が広がっていた。
 私は片手に鍵を握り締め、家の中へと入った。
 この古びた家屋は、元々は漁師が住んでいた家らしい。
 ある程度の家具や家財はそのままになっていて、大きな魚の魚拓や、漁の道具などがあちこちに残っていた。
 中には畳が敷かれ、扉は襖か障子だった。
 外見とは裏腹に、内部は案外住みやすそうだった。
 二階には物置部屋と小部屋が一つあり、小部屋の窓際には、引越しで運び込まれた私のベッドが置かれていた。
 その他、家から持ってきた必要最低限の物を詰めたダンボールが隅に積まれている。
 ベッドと小さなダンボールが数個。
 女の子の引越しにしてはあまりにも少ない荷物だろう。
 私は、既に取り付けられ、閉められていたカーテンを開け放った。
 すると、小部屋は一瞬にして眩しい光に包まれた。
 窓からは小さな港が見えた。
 防波堤の先には、白くて背の低い灯台がひっそりと立っている。
 そのさらに先には、どこまでも青い景色が広がっていた。
 別にその場所を選んだことに理由などなかった。
 人口が少なくて、ある程度過疎化が進んでいる場所ならどこでもよかった。
 人ごみから遠ざかり、『あの人』から離れたかった。
 私はいつの間にか、小さな港町を目指すようになっていた。
 私は一人になるために、誰にも縛られることのない自由を求めていた。
 そして、本当の自由を手に入れた時、一人、死ねるために……。


 2、白山村の夏


「あーあ、お腹すいたよぉ、まーこーとー」
「何で腹が空く度に俺の名前を呼ぶんだよ」
 学校の帰り道の途中、村へと続く農道を歩いていると、いかにも勝ち気そうな短髪の女の子がやるせない声を上げた。
 小畑サツキだ。 
「サツキちゃんも帰りにパンを買っておけばよかったね」
 サツキの甲高い声とは打って変わった落ち着いた声で言ったのは、肩まである髪を後ろで二つに結った清涼感のある女の子、村上美沙ちゃんだ。
 彼女達は俺の幼馴染で、幼小中高と同じ学校に通う腐れ縁だ。
 三人とも小さい頃からの仲で、いわゆるご近所様だった。
 どうやらサツキは、空腹のあまり、俺が商店で買ったパンをねだっているらしい。
「自分で買いに行けっての」
「私はお金を持ち歩かない主義なの。だって盗まれたら大変でしょ」
 都合の良い事を言うサツキに、俺は仕方なく、少ないお小遣いで買ったメロンパンを半分分けてやることにした。
 彼女は昔から駄々をこねると手がつけられなくなる。
「さすがはマコト! 太っ腹だねぇ」
 と言いながら、サツキは早速、大きな口でメロンパンにかじりついた。
 いい加減、彼女は俺の財布の軽さに気づいてほしい。
 でも、期待はするだけ無駄で、地球が逆回転することを祈るくらい意味のないことだった。
 サツキは俺よりも背が低くて、身体も細いが、食欲と態度だけは俺以上に大きかった。
 そんな彼女は昼食後の元気と、体育の成績だけは抜群だ。
 一人で項垂れている俺と、嬉しそうなサツキを見て、美沙ちゃんが微笑んでいた。
 彼女にとっては微笑ましい光景なのだろうが、当事者の気持ちもわかってほしいものだ。
 美沙ちゃんはサツキに比べたら途方もなくしっかり者で、みんなのまとめ役だ。しかし、ある種の鈍感さも兼ね備えていた。
 たまにグサッと来ることも平然とした様子で言うが、本人が意図して言っているのかは、未だにわからない。
 サツキよりも背が高く、穏やかで、女性としての魅力がある彼女が言うと、何でも許せてしまうのが、なんとも言いがたいところだ。
 そもそも、サツキはお金を盗まれると言うが、そんなことはまずありえない。
 第一に、ここは人口五百人にも満たない小さな村なのだから。
 白山村は周囲を深い山に囲まれた、今流行りの過疎化が進んだ村だった。
 住民は互いに気が知れた仲で、大げさに言えば村の全員が知り合いのようなものだった。
 そんな村に泥棒などする者はいないし、そんな事件があったとも聞いたことはない。
 だから、みんな一日中、家に鍵を掛けることもないくらいだ。
 第二に、俺達の通っている白山高校の生徒はわずか四人だ。
 盗んだところで、すぐに犯人は見つかってしまうだろう。