星の帝国
序章 〇、終わりの始まり(後編)
「ここまで来れば、しばらくは大丈夫だ」
ハワードは肩で息をしながら、少女の手を放した。むろん、すぐに追いつかれることはわかっている。機敏に動き回る皇子は近衛兵を撒くことには慣れているが、彼らも皇子を捕まえることについては熟練者なのだ。
後ろを振り返ったハワードは、銀髪を振り乱した少女の顔をまじまじと見つめた。薄氷のような水色を宿した切れ長の瞳。形のよい鼻と薄い唇がつくりだす調和。それらにはぼろ服よりもドレスが似合うだろうと思わせる品がある。だがそれを乱すもの――傷痕が彼女の左頬を支配していた。節足動物を思わせるほど隆起のあるその肌はでこぼこで、荒野よりも荒れ果てていた。怪我をしたあとに再び何かにえぐられたような……。
無表情だった少女はハワードを睨みつけ、左頬を両手でさっと隠した。
「ごめん、じろじろ見て」
素直に謝罪したハワードは少女から目をそらして天幕の方角を見つめた。
戦車が五十両は連なることができるだろう距離の先に、白いかたまりが見える。そこまでつづくひびわれた道程を彩るのは、ひねくれたかたちの岩と石ばかりだ。
ハワードは岩の陰にしゃがみこんで、少女を手招きした。
「ひとりじゃあ、きっと生きていけないよ。しばらく荒野が続くからね。ここ――軍のなかにいれば安全だし、水も食事もあるよ」
背後とハワードをたっぷり見比べた少女は、傷だらけの素足を震わせながらハワードの隣に立った。
「座りなよ。疲れるでしょ。――大丈夫。ぼくはきみを傷つけたりなんかしない」
まるでなにかの覚悟を決めるような深い息を吐いてから、少女は腰をおろした。透きとおった両目は荒野の果て――地平線をいころそうとするかのように睨みつけている。
ハワードも少女に倣った。
太陽がいまにも落ちそうだった。まざりあう光と闇のなか、いたるところに雲のかけらが散らばって、この世でもっとも壮大なパレットと化した天空が広がっている。
「きみ、きれいな銀髪だね。ぼく、きみみたいな銀髪の人、ひとりだけ知っているんだ。本物の銀髪はその人ときみしか見たことない」
少女は動かない。
「リリアっていう女の人。ぼくの母上よりひとつだけ年上の女官だったんだ。聖歌隊をしていたこともあって、歌がとてもうまかったんだよ。母上はぼくより父上が好きだから……リリアがいつもいっしょにいてくれた。あとね、きみみたいな水色の瞳の子も知ってる。その子はジールっていって、公爵家の息子で、とても賢かったんだ。離宮の庭でいっぱい遊んだよ。戦車ごっこをしたり、小石を並べて海戦ごっこをしたり」
上着のボタンをひとつ開いたハワードは、シャツの下からロケットペンダントを取り出した。開けると、左側に清楚な銀髪の女性、右側に快活そうな黒髪の少年の写真が並んでいる。女性がリリア・シルヴァーナ、少年がジール・ヒルガードである。
ハワードの手のなかで微笑むふたりを、少女は覗きこんだ。食い入るように写真を見つめる彼女は、ハワードがその面差しを見つめていることに気づかない。
「ふたりは元気なの?」
今にも消えそうな、かぼそい声だった。藍玉(らんぎょく)のような瞳が、金髪の皇子の姿をはっきりと映しだしている。
つばを飲みこんだハワードは、おぼつかない手つきでロケットペンダントをしまった。
「死んじゃったんだよ、去年。リリアは病気で、ジールは火事で……。リリアとジールを生き返らせて……って、ずっとお祈りしているんだ。叶わない祈りはないらしいからね」
語尾は震え、かすれていた。唇を噛んだハワードは膝を抱える腕に突っ伏した。
「……叶ったの?」
鼻を軽くすすって顔を上げたハワードが見たものは、あでやかな銀髪が砂塵とともに舞踊を見せるさまだった。
「……一緒に来ないかい?」
「…………」
「ごめん、馬鹿なことを言ったよね」
「願いは叶ったの?」
繰り返された問いにハワードは首を振った。
「まだ叶っちゃいないよ。でも、きみが来てくれるなら叶うかもしれない」
「どうして――」
「きみはこれからどこへ行く――? 行きたいところ、帰るところ、あるの?」
「…………」
「ぼくならきみに新しい居場所をあげられる」
ハワードの青玉の瞳が、少女の両目に満ちる静かな水面を照らした。
「ぼくはハワード。教えて、きみの名前は?」
「わたしの名前……?」
「そう、きみの名前だよ」
「わ、わたしは……。違う……違うの……」
「どうしたんだい」
少女の肩を掴んだハワードは、幼い妹を気づかうように優しくゆさぶった。瞬間、少女が目を見開いた。
「触らないで!」
――汚らわしい!
声なきその叫びは、ハワードの脳にはっきりとこだました。頭をかきむしって地面にうずくまる少女を、彼は呆然と見下ろした。
「殿下!」
現実に呼び戻さんと皇子の背中にぶつけられたのは、近衛隊長モグの叱責まじりの声と、四輪駆動車の前照灯が放つ光だった。
ハンドルからカメラにすばやく得物を替えた従軍記者が、少女にレンズを向ける。血走ったモグの両目が汚れた車の窓越しに、ハワードに突き刺さった。大慌てで皇子を捜していた近衛隊長は、捕まえた記者に車を運転させて右往左往していたのだ。
「何かあったらどうなさるおつもりです!」
「ごめんなさい」
立ちあがったハワードの様子に罪悪感らしいものはうかがえない。新たな人物の登場にかえって精神を落ちつかせたらしい少女は、車の荷台に載る小さな鳩小屋を眺めていた。
空気を和ませようと不毛な努力をする鳴き声が重なりながら響いてくる。記者が新聞社に情報――フィルムを送るための伝書鳩だ。
興味ぶかそうにしている少女を一瞥したハワードは、荷台に駆けよって鳩小屋の扉を力任せに開け放った。
「なんてことをなさるのです!」
抗議をしながらも記者がシャッターを切ることを優先してしまったのは、職業がつくった本能だろう。
車を降りたモグがハワードを後ろから拘束したが、鳩たちの自由までは奪えない。帝都にフィルムを送れなくなってしまう――記者の絶望があたりに満ち満ちたとき、膝をついていた少女の頭に、肩に、腕に、鳩が惹かれるようにとまって翼をばたつかせた。
身を縮こませた少女だったが、やがてゆっくりと様子をうかがいはじめた。じゃれる数羽の鳩を目にとめて、口角がわずかに上がる。羽が舞いちるなか、稀代の彫刻家がつくりあげた天使の彫像が微笑んだかのようだった。
すべての瞬間を瞳に焼きつけるのだといわんばかりに、ハワードは鳩に囲まれている少女の姿を観つづけていた。
「こんなことは初めてです。あの子が『銀の子』だから魔力に誘われているのでしょうか」
写真を撮る記者にモグは首を振る。
「まさか――」
少女は懐く鳩たちを撫で、柔らかな笑みさえ向けていた。あと数秒も待てば笑い声が聞こえてくるかもしれない。
「『銀の子』……」
ハワードが落としたつぶやきは、荒野の風にさらわれていった。
〈星は人の犯した罪を決して許しはしない〉
……それを記すのは、拝地教(はいちきょう)の聖典テラリス書である。拝地教はこの世界、この星そのものを神と定める一神教だ。