WonderLand(上)
黙ってグラスを傾けていた奥に座る男性が口を挟んだ。でっぷりと体格はいいけれど、ハンチングをかぶっていたりと、どこか洒落た人だった。
「アンタ、うるさいよ。ガキなんか、とうの昔に死んださ。ところで何だい、こいつは」
「アリス」
あたしが云うと、「こういうとこだけうるさいんだから、だからガキは嫌いなんだ」と、苛々とした口で舌打ちした。
「あたしの客の娘よ」
「客?」
あたしは思わず、声をあげた。でも、リリーさんも、奥に座る男性も、顔色一つ変えなかった。
「お父さん、お姉さんを買ってるの?」
「お姉さんなんて、あたしにも名前があるのよ、アリス。でも、そうね。あなたはあたしを追いかけて、このワンダーランドに迷い込んだのだから、あたしはあなたの物語の中ではウサギってことになるかしら。ウサギでいいわ、ウサギさんって呼んで頂戴」
あたしは困って、リリーさんの方に目を向けた。でも、口を開いたのは、奥に座る男性だった。
「困ってるじゃねぇか、モモコのおふざけに」
「おふざけじゃないわ、呼び名は必要よ。それは必ずしも、普段使っている名前である必要はないわ。その言葉が、あたしを意味しているとわかればいいの」
「なら俺たちゃ何て呼べばいいのさ」
「べつに、ウサギでもネコでも、それがあたしを意味するということさえあたしに示しておいてくれれば、何て呼んでくれてもかまわないわよ」
はんっと、男性はグラスに入っていた液体を全部飲み干した。
「今まで通り、モモコと呼ばせてもらうよ」
モモコ、それがこの女性の本当の名前らしかった。でも、あたしに「ウサギさん」と呼ぶように云ったのだから、あたしは彼女をウサギさんと呼ばざるを得なかった。
「ねぇ、ウサギさん。お父さんはウサギさんを買ってたの?」
そう聞くと、ウサギはとても楽しそうに高らかな声で笑った。
「ねーぇ、ウサギさんって、なんだかあたし童話に出てくるみたいじゃない?楽しいわねぇ、ウサギさん、ウサギさん、どうしてお月様の中に居るのって、聞かれてるみたいな感じ」
本当に楽しそうに声をあげるのを見て、あたしは驚くというよりも、怖さを感じた。笑っているのを見て、ホラー映画を観たときのような怖さを感じたのは、初めてだった。
作品名:WonderLand(上) 作家名:紅月一花