WonderLand(上)
あの日、父が若い女性とホテルへ入っていったことを、あたしは誰にも話していない。気になる男の子ができたときのように、母に「ねぇ、聞いてぇ」と纏わりついて話したい衝動に何度も駆られた。でも、それを云ってしまえば、「家族」が壊れてしまうことを、あたしは知っていた。「家族」を壊すような恐ろしい賭けは、あたしにはできなかった。
金曜日、学校を終えてから、あたしは友達の誘いを断って一人電車に乗り、あの日女性があたしに残した名刺の裏の地図を頼りに、その場所を目指した。いつか母が、「あなたたちの来るようなところではない」と険しい顔をして云った駅。いつもは電車の車窓から見送るだけだったその駅で、あたしは降りた。
その街の空気は、異様としか例えようがない。何語かもわからないような言語が飛び交い、日本人ではない顔立ちの人たちばかりとすれ違う。木の一本もなくて、狭い箱の中に詰め込んだ積み木のように、雑多なビルが所狭しと並んでいる。並ぶビルは、どれも錆びれた古いものばかりで、壁には中に入っている店の名前なのだろうか、小さな看板がいくつも連なっていた。
派手なルージュを引いたけばけばしい女性、路上でお酒を飲み交わす中年男性たち。大阪のビル街を歩くような華やかさはそこにはなくて、煙草の煙で道は白く霞んで見えた。
車一台がようやく入れるか入れないかくらいの、小さな路地ばかりだった。情報など、殆ど書き込んでいない地図を見ながら、本当にこの場所にたどり着けるのだろうかと不安に駆られる。一生懸命地図を追うけれど、それが合っているのか全く自信が持てなかった。
「お嬢ちゃん、探しもん?」
突然声を掛けられて、振り返ってみると、煙草を手にしたけばけばしいピンクのワンピースを纏った女性が立っていた。警戒心が働いて何も云えずにいると、その女性はあたしが持っていた名刺をすっと取り上げた。
「こんなとこに、何の用があんの?」
「ちょっと」と、まごついていると、
「ついといで」
名刺を取り上げたまま、女性はさっさと前を歩いていった。あたしは考える暇もなく、とりあえず急いでその後を追うしかなかった。
「なんやシホさん、新しい女の子入れたんかい?えらい若いの捕まえたやないか」
道の脇でビールを啜っていた顔を真っ赤にした老人が、女性に話し掛けた。
作品名:WonderLand(上) 作家名:紅月一花