WonderLand(上)
そのことを除けば、あたしを取り巻くあらゆる環境は、それほど悪いものではなかった。いや、むしろ良い方なのだと思う。父は、カラオケ店という仕事柄当直があり、週の半分程度しか家にはいないけれど、両親の仲は良く、贅沢はできないながらも、家庭円満と云えた。小学生の幼いあたしの目から見ても、あたしたちは紛れもなく幸せな人間で、ウサギの言葉を借りるなら、日向の住人だった。
あの日、あたしがウサギに出会わなければ、きっと、ずっと日向の住人として、何も知ることなく、ある程度幸せな時間を過ごせていたのだと思う。いや、今考えれば、もともとあたしの未来へのレールは、日向には向いていなかったのかもしれない。物事が起こるには、必ず原因がある。あたしがウサギに出会うことになったことにも原因があったのだろうし、その原因にも必ず原因があったはずなのだ。人生は、歴史は、すべて原因の連鎖であると云っても過言ではない。極端なことを云えば、あたしという人間が生まれたことが、ウサギに出会う原因であったと云っても、等しいのだ。
ウサギ、あたしをワンダーランドへと導くそのウサギは、父の腕に抱かれていた。
その日、あたしは父の職場の前にいた。
その日父は当直だったのだけれど、髭剃り用の道具一式を忘れていった。身だしなみを重視されるため、髭剃りは欠かせないのだと父はいつも云っていた。母は、コンビニで買えるのだから大丈夫でしょうと云ったけれど、あたしはそれを届けると云って出掛けたのだ。届けてあげたら助かるだろうという気持ちもあったけれど、それよりも、その朝学校で表彰された作文コンクールの表彰状を早く父に見せたいという気持ちが強かったのだ。
ローカルしか停まらないような小さな駅前にある、寂れたカラオケ店。そこで、あたしは父を探す必要はなかった。店へ入る前に、父の姿を見つけたのだ。
しかし、その格好はひどく不自然だった。
当直だと云っていたのに、父は朝持って出た荷物をすべて抱えていて、駅の方へと歩いていくのだ。それは、休憩や仕事の都合で出てきたというよりは、まるで帰宅と云った方が自然だった。
作品名:WonderLand(上) 作家名:紅月一花