WonderLand(上)
父は相変わらず家族思いの父と夫を演じ、母は父の良き聞き手としての妻を演じた。弟は、父にも母にもよく懐く、可愛い息子を演じていた。
父はあれから何度か当直と云って、家を留守にした。あたしはその度に、ウサギのことを思い出した。まるで生気を感じさせない、人形のようなウサギ。不気味な笑みを浮かべたその影は、いつも父に纏わりついていた。家でその日あった出来事を話している父の顔が、突然歪んで不気味な笑みに変わっていくようになった。ウサギが云った「日陰」の顔が滲み出ているようで、あたしは父の顔を見ることができなくなった。
気になるようになったのは、父だけではなかった。母の携帯電話が鳴るたびに、あたしはそこに母の陰の顔があるのではないかと疑うようになった。母も父と同じように、あたしたちの知らない場所で、日陰の世界を楽しんでいるのではないか。あの不気味な笑みを浮かべて、高らかに笑っているのではないか。弟だって、あの無邪気な笑みの下で何を思っているだろうか。
すべてが道化のようだった。
道行く人々の背後に、影の笑みが見える。学校の友人も、先生も、みんな陰の顔をすぐ後ろに携えているような、そんな気がしてならなかった。
「日陰の存在を一度知ってしまったら、離れられないものなのよ。人間は綺麗なものよりも、汚いものを心の中では好む生き物なんだから」
その言葉が、何度も何度も頭にフラッシュバックした。好んでなどいない、好んで見ようなどとしているわけではない。そう否定しようとしても、あたしの頭の中は、日に日に陰ばかりを追うようになっていた。
気が付くと、あたしはまたWonderLandの前にいた。
二度と来るつもりはなかった。再び此処へ来て、あたしは何をしようとしているのか。あたし自身、何をしたいのかまったくわかっていなかった。ただ、自分の中に広がっていく陰の存在を、あたしはどうしたらいいのかわからなかった。
WonderLandは、前来たときと同じように、異色の空気を纏って其処に在った。その重々しい扉を、あたしはおそるおそる開けた。
小さな隙間から中を覗き込んだ。だけれど、そこにはこの間のようにリリーさんの姿はなかった。薄暗い照明と、空間すべてを呑みこむようなクラシック音楽をそのままに、でも店内はがらんとして人の姿はなかった。
作品名:WonderLand(上) 作家名:紅月一花