WonderLand(上)
あたしは、その陰の部分を垣間見るのが好きなのよ。源氏物語で光源氏が気になる女性をこっそり垣間見るように、ドキドキと心が高鳴るの。でも、見てるだけじゃつまらないから、自分から影を造りだすことにしたのよ。じわじわとね。あたしは、あなたのパパの日陰の部分に、ちょっとお邪魔してるだけ」
ウサギは、なおも楽しそうに話を続ける。あたしは緊張のせいで、うまく何か云うことも、表情を作ることもできなかった。
「あなたも、もっと覗いてみたくない?パパの日陰の部分」
人形が笑っているようだった。本当に楽しそうに、無邪気に笑い声をたてているのに、そこに表情は見えない。
「それくらいにしときな、モモコ」
リリーさんが、低く太い声で云った。
「か、帰ります」
声は上ずったけれど、それだけ云うのが精一杯だった。ウサギと目を合わさないように、あたしは慌ててスツールから飛び降りて、扉へと向かった。
「日陰の存在を一度知ってしまったら、離れられないものなのよ。人間は綺麗なものよりも、汚いものを心の中では好む生き物なんだから」
ウサギの高らかな声が聞こえた。けれど、あたしは振り返らずに逃げるようにしてWonderLandを飛び出した。
無意識のうちに走り出したけれど、来た道をたどっていることはなんとなくわかった。この奇妙な街かた一刻も早く出たいという気持ちが、たどたどしい記憶を思い出させているのかもしれなかった。
街はいつのまにか陽が傾き始め、橙色に染まりつつあった。来たときよりも路地に居る人の数は増えて、様々な声、音が飛び交っている。でも、それらは普段あたしが商店街や住宅街で耳にするそれとはまったく異なり、なんだか奇妙で不思議な光景だった。でも、それを楽しんだり興味を示したりするような余裕もなくて、あたしはその空間を全速力で駆け抜けようとした。
路地を曲がろうとしたときに、不意に出てきた人とぶつかった。その衝撃で、ぶつかった相手が地面に勢いよく倒れこ込んだ。
「いったぁ」と声を上げる女性に、あたしは慌てて「ごめんなさい」と謝った。
「あら、さっきの子やないの」
倒れた女性は、さっきWonderLandへ連れて行ってくれた、あのシホさんと呼ばれていた女性だった。シホさんは身体を起こし、ぱんぱんとワンピースをはたいた。
作品名:WonderLand(上) 作家名:紅月一花