ローゼン・サーガ
全てを見ていたキルスは不快な気持ちになった。明らかにローゼンは嫌がっているではないか。それなのにあのザッハークという男は魔導士の恥さらしでしかない。
怒りが頂点に来たキルスは、ワインの入ったコップを持ったままザッハークの前まで行き、コップの中身を全てザッハークにぶっかけてやった。
「ローゼンが嫌がっているのがわからないのか!」
「このクソガキ、何しやがるっ!」
立ち上がろうとしたザッハークを押さえつつ、ローゼンは泣きそうな顔をした。
「いいのですキルスさん、相手は魔導士様なのですから……」
「このような魔導士が魔導士あっていいはずがない。恥を知れザッハーク!」
侮辱されたザッハークはローゼンの身体を押し退けて、キルスに飛び掛ろうとしたのだが、瞬時にキルスが作った魔導壁に顔面からぶつかってよろめいた。
鼻を押さえながらザッハークは大声で叫んだ。
「キサマも魔導士か!?」
「そうだ」
頭巾を取ってキルスは自分の顔をザッハークに見せ付けてやった。
見る見るうちにザッハークの顔から血の気が失せていき、彼は言葉も出せないまま酒場の外へ逃げ出していってしまった。
ローゼンは呆然としてしまった。キルスの顔を見た途端にザッハークは血相を変えて逃げ出してしまった。キルスとは何者なのだろうか?
「あの、あなた、いいえ、あなた様はどなたなのですか?」
酒場で酒を飲んでいた男たちも一部始終を見ていて、このローブを着た魔導士が誰なのか酒を飲む手を止めて聞こうとしていた。
この時はじめてキルスは自分の過ちに気がついた。こんなに目立ってしまったのはよくなかった。今まで神殿を出たことがなかったので貴族や魔導士以外の者で自分の顔を知っている者はまずいないだろう。だが、この状況はそれ以前の問題だった。
キルスは何も言えず、カウンターに一オルガ硬貨を置くと足早に酒場を出て行ってしまった。
酒場からだいぶ離れたところで、後ろからローゼンが走って追いかけて来た。それに気がついたキルスは早足で道を進んだが、後ろでローゼンが転んだような音と声をあげたので仕方なく来た道を引き返した。
転んでいるローゼンにキルスは手を差し伸べた。
「大丈夫か、怪我はないか?」
「ありがとうございます」
キルスの手を借りて立ち上がったローゼンは服に付いた砂を手で払うと、照れ笑いを浮かべた。
「わたくしっておっちょこちょいなのですよね」
「何故追いかけて来たのだ?」
「これをお返しに来ました」
ローゼンが差し出した手の平には金色に輝く一オルガ硬貨が乗せられていた。
「酒代を払ったつもりだったのだが、足らなかったのか?」
驚いた顔をしてローゼンは首を何度も横に振った。
「とんでもありません、貰い過ぎなのです!」
「貰い過ぎ?」
「これ一枚でワインが一〇〇杯以上飲めますよ!」
「そうなのか?」
お金をはじめて使ったキルスには金銭感覚というものがわからなかった。そもそも、この硬貨も神殿の宝物庫にあったものを適当に持って来ただけだ。
「あなた様はどなたなのですか?」
「私について来るといい、そうすればわかるだろう」
この後、ローゼンはキルスに連れられ神殿に案内された。そして、すぐにキルスは皆にローゼンを紹介し、婚約すると公言した。
いきなり神殿に連れて来られたローゼンは驚き、その上婚約の約束を出逢ったばかりなのにされてしまい困惑してしまった。だが、ローゼンはうれしそうな顔をしてキルスの申し出を受けた。ローゼンもすでにキルスのこと愛していたのだ。
神殿内に住まわせてもらうことになったローゼンは、いつもキルスと行動を共にしていた。いつでも二人は仲むつまじくして、誰もが?羨む?仲だった。
貴族の出でないローゼンは女貴族たちの嫉妬の対象だったのだ。陰で悪い噂をいろいろと囁かれ、それはローゼンの耳にも入っていた。だが、それでもローゼンはキルスの前で気丈に振舞って、いつも笑みを絶やすことがなかった。
日に日にローゼンへの仕打ちは激しさを増し、彼女の心は確実に傷ついていった。何度も自殺を考えたが、キルスさえ近くにいてくれれば平気だった。
だが、ある日悲劇は訪れた。ついに誰かがローゼンの食事に毒を盛ったのだ。
夕食の最中、突然ローゼンが苦しみだし吐き気を催したかと思うと、そのまま食器類をぶちまけて痙攣を起こし、息を引き取ってしまったのだ。
キルスはローゼンの身体を抱きかかえ泣き叫んだ。この時のキルスには何故ローゼンが殺されなければならなかったのかわからなかった。犯人を探そうという思考も全くなかった。
すぐさまキルスは死んでしまったローゼンを抱きかかえて何処かに行こうとした。
狂気の目をしたキースを誰もが止めようとしたが、キースは自分の前に立ちはだかる者全てを魔眼と呼ばれる黒い瞳で睨みつけた。魔眼で睨みつけられた者は魔眼から発せられる魔導によって動きを封じられてしまった。
神殿の地下に下りたキルスは宝物庫に向かい、そこでローゼンの身体を床に寝かせ、自分はある魔導書を見つけようとしていた。
宝物庫に眠る古い魔導書の中にあった禁断秘術。キルスは一心不乱でそれを探した。
「……これだ、見つけたぞ!」
死人の魂を術者の身体に宿す魔導。
宝物庫には貴重な魔道具の数々も安置されている。その中からキルスは妖しく輝く短刀を手に取り横たわったローゼンをまたぐようにしてひざまずいた。
「安心してくれ、必ずや成功させる」
奇怪な呪文を唱えはじめたキルスの顔は悪魔に取り憑かれたようであった。
両手で短剣の柄を強く握り締め、大きく振り上げた。次の瞬間、妖しく輝く短剣はローゼンの胸に突き立てられ、そのまま肉の中に沈んでいった。
血は一滴も流れ出ず、キルスはそのまま短剣をゆっくりと動かし、胸に大きな穴を空けた。
短剣を放り投げたキルスは手を裂けた胸の中に突っ込んだ。そのまま引き抜かれた手には何かが握られていた。それは心臓だった。
キルスは大きな口を開けるとがぶりと心臓に喰らいついた。
野獣か、悪魔か、ローゼンの心臓を喰らったキルスの体内に何かが宿った。そう、それはローゼンの魂。
風が巻き起こり、キルスの身体から霧が立ち昇った。それは人の形になり、半透明のローゼンが現れた。
「キルス様、わたくしは?」
「ずっと、一緒にいよう」
全てはキルスのエゴであったのかもしれない。全ては過ちであったのかもしれない。仮初の幸せは長くは続かなかった。
以前よりもキルスは部屋の閉じこもるようになり、ローゼンと二人だけの時間を過ごした。
キルスはローゼンの存在を維持するために自分の生命力をローゼンに捧げ、彼の身体は弱体化し、常に身体が気だるく、部屋を出たくとも出られない状況だったのだ。
そんなある日のこと、メミスの都にあのレザービトゥルドが現れたのだ。
四〇年に一度、メミスの都ではレザービトゥルドとの戦いの備えていたものの、まさか本物が現れるとは誰も予想だにしなかったのだ。
人々は慌てふためいた。レザービトゥルドが来ると宣言したこの日はムーミストの力が最も弱まる日であり、女神に守ってもらえぬと知った人々の恐怖は頂点にあった。
作品名:ローゼン・サーガ 作家名:秋月あきら(秋月瑛)