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遼州戦記 保安隊日乗 7

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 見た目はどう見ても小学生程度のネネの言葉にオンドラは静かに相づちを打つ。オンドラが意味を理解しているかしていないか。そんなことはどうでも良いというようにネネは視界の中で拡大していく一つの殺風景な島をじっくりと眺めていた。
「本当に6時間で帰ってきてくれよ……」 
「分かったって言ってるだろ!」 
 心配そうな表情の船長を怒鳴りつけながらオンドラは背後からゴムボートを引っ張り上げる。軍用の軽量かつ搭載量の多いゴムボートの存在はこの船がまともな漁をする船ではない事実をオンドラ達に思い知らせる。一人で軽々とそれを持ち上げるオンドラにネネは不器用に手を貸そうとする。
「一応、あんたは雇い主なんだから……」 
 珍しく裏のない笑みを浮かべたオンドラはそのまま目の前の荒れる海にボートを投げた。浮かぶボートに足下の大きめのバッグを投げ、そのまま舳先に縛られたロープをたどって上手い具合に乗船するオンドラ。
「手を……貸してください」 
「預言者もさすがにこんな船に乗るのは初めてかねえ」 
 皮肉を込めながらネネの手を取るオンドラ。ネネは小さな体でひょこりとボートに飛び移る。軽い船体が小さなネネを受け止めただけでも大げさに水しぶきを上げた。
「6時間過ぎたら超過料金……」 
「くどいってんだよ! 」 
 船長を怒鳴りつけたオンドラはそのまま船体の後ろにあった小型の推進器で船を陸地へ向けた。
「全く……金がいくらあっても足りねえや……経費の精算の時に苦労するな」 
「まあオンドラさんは通常のルートは使えないですからね。私だけで良ければ航空料金と宿泊費だけで済むんですが……」 
 ネネの重い口調で自分がお尋ね者だったことを思い出してオンドラは黙り込むとそのまま船を遠くに見える黒い砂に覆われている浜辺へと向けた。
「吉田俊平……そのオリジナル。こんな僻地に住んでいるとはねえ……国家元首の暗殺なんてことを何度となくやるような凄腕だぜ……なにを好きこのんでこんな寂しい場所に住んでるのやら」 
「それは本人に聞いてみないと分からないことですよね。それに……これから会う初めての生きた吉田俊平が本物の吉田俊平とは限らない……」 
 浜辺を見つめたまま曖昧に笑いながらネネが呟く。オンドラは不可解そうな顔をしながらそれ以上話を続けずにただ船を進めた。
 海流の関係か、波の割に船は滞ることなく一直線に浜辺に進んでいく。オンドラが振り返るとすでに彼女達が後にした漁船はもう点にしか見えなかった。オンドラは大きくあかんべーをするとそのまま船を浜辺にぶつけるように進めた。
「ちょっと待ってな……」 
 ジーンズが濡れるのも躊躇せずにオンドラは浜辺の膝ほどの深さの水に飛び降りる。ネネが周りを見回すが、氷結が解けたばかりの海峡を見渡す丘には深い雪が残っているのが見える。生身の人間であればその冷たさから無事では済まないだろうと言う状況の中で、オンドラは文句も言わずにそのままネネが濡れずに上陸できる地点まで船を引きずってくれる。
「優しいんですね……」 
「なあに、金のためさ」 
 淡々とそれだけ言うとネネが船を下りたことを確認したオンドラはそのままゴムボートを引きずって浜辺の奥の岩陰へと歩いて行った。
 ネネは静かにムートン生地のコートの襟を手で寄せながら空を見上げた。この時期の東和北部の気象条件の典型的な例を示してみせるように薄い雲が太陽を隠し、もやのような空の曇りの中から光が静かに地面に注いでいるのが見える。
「本当に……人が住むには適していない場所なんですね」 
 静かにそれだけ言うとオンドラが消えていった岩陰に目をやった。すぐにそこからブーツを脱いで中に入った水を抜きながら素足で歩いてくるオンドラの姿が目に入った。
「本当に大丈夫なんですか? 」 
「一応ミルスペックの義体だからねえ……とりあえず異常は感じないけど……もし問題があったら追加料金を請求するからな」 
「まあそのお金は西園寺のお嬢さんに言えば出してくれるでしょ」 
 それだけ言うとネネは確かな足取りで砂浜から黒い岩肌の崖を登りはじめた。オンドラはその足取りがあまりに確かで確実なのでしばらくは呆然とその様子を見守っていたが、しばらくして自分が雇われ人である事実を思い出して慌ててネネの後ろについた。
「心配しなくても大丈夫ですよ……山登りは遼州にいた時には必須科目でしたから」 
「でもなあ……」 
「心配してくれているんですか? 」
「まあ金の分は」 
 苦笑いを浮かべるオンドラに自然体の笑みで応えたネネはすぐに崖を登ることに集中した。決して緩やかな崖ではない、さらに所々に吹き付けられた強い風でめり込むように白く染まった雪の塊があって素人ならばすぐにでも滑り落ちてしまうような峻険な崖を順調そのものに登っていくネネ。オンドラはただ租界という閉鎖環境でその中立的な立ち位置と正確かつ的確な助言から『預言者』の二つ名で呼ばれる幼く見える情報屋の自分の知り得ない才能に驚きつつその後ろを続けて登った。
 正直オンドラはネネに付いていくのがやっとだった。確かに百キロを超える義体の重さはあるにしても馬力ではネネはオンドラの十分の一にも満たないはずだった。もし足を踏み外したり手を添える場所を間違えれば生身の人間の反応速度なら対応できずに転落して行くしかないような切り立った崖。そこを一つの間違いもなく的確に登り続けるネネ。
「あんた……山登りの趣味でもあるのかい? 」 
「久しぶりですよ……本当に……たぶん東和に来てからは初めての経験です」 
 さすがに体力には自信が無いようで息を切らせながらもネネは的確な動作で崖を登り続け、ついには船から見た崖の最上部へとたどり着いていた。
「ああ、疲れました……日頃の運動ってものは大事なんですね……」 
 そのままひょこりと近くの岩に腰掛けてほほえみを浮かべるネネ。オンドラはようやく重い体を崖から引き上げるとこれまで登ってきた崖の高さを確かめるべく下をのぞき見た。百メートル以上はある。それでも目の前のネネは涼しい顔をしてこれから向かうべき洞窟があるという北の方角をじっと眺めている。
「本当に……あんたは凄い奴だな」 
「あなたの親御さんが育った遼南にはこんな山道はありふれているんですよ……まあもう二度と戻ることの出来ない国だとあなたは言うかも知れませんが」 
 それだけ言うとネネは疲れも見せずに立ち上がり、崖の横に不自然に出来ている道をゆっくりと北へ歩き始めた。
「風がないのが幸いと言えば幸いかねえ……」 
 黙っていることが苦手というように苦笑いを浮かべながらオンドラは早足のネネの後に続いた。事実、続く道の中央の地面の岩が露出して見える事実はこの島が冬には北からの強い季節風に煽られる日々を重ねることを示していた。
「幸運は訪れるときは立て続けに訪れるものです。そして不幸もまた同じ……」 
「妙に悟った発言だねえ……ただそれはアタシも知っている話だ」 
 ネネはオンドラの仏頂面を確認するために振り返りにこりと笑うとそのまま道を進む。波の音だけが響いている文明社会から隔絶された北方の島。
「全く……吉田俊平……何者なのか興味が出る光景だよ」