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遼州戦記 保安隊日乗 7

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「はあ……転んじゃいました」 
「見れば分かる」 
 それだけ言うとそのまま誠を置いて歩き出すカウラ。誠は額に付いた泥をたたき落としながら今度は慎重な足取りで斜面を登りはじめた。
「早く! 」 
 遠くで叫ぶアイシャの声がこだまする。先ほど要を見た地点くらいにはアイシャはすでに到着しているらしい。
「こりゃあ……急がないと」 
 自分自身に言い聞かせるようにして誠はぬかるむ山道をただひたすらに上へと登っていった。
 右足、左足。次々と滑る冬の軟弱な泥道。ただ夢中で誠は登り続けた。ただその間願うことは要の無思慮な発砲音が響かないことだけだった。次第に意識が薄くなり、足を蹴る動作だけにすべての神経が集中するようになったときに不意に傾斜が緩くなり始めた。
「終わった……」 
 誠はようやく泥ばかりで覆われていた視界を何とか上に持ち上げた。
 そこには一本だけ残っている大きな杉の木の陰で息を潜めて先の様子をうかがうアイシャとカウラの姿があった。
「ああ、すいません……ようやくたどり着きました……」 
「しっ!」 
 唇に人差し指を当てて沈黙するように促すアイシャ。その隣のカウラの視線の先を誠は静かに目で追った。
 草むらの影で銃を構えて身を潜める要の後ろ姿が見える。そしてその向こうの枯れ草の穂の隙間からは茶色いコンロンオオヒグマの頭がちらちらと見て取れた。
「間に合ったんですね……」 
「間に合ったかどうかはこれから分かることだ」 
 カウラの感情を押し殺したような声にそれまでの誠の到着した喜びのようなものは瞬時に吹き飛んだ。熊の周りを草の隙間から覗いていた要がそのまま銃を構えて飛び出していく。
「カウラちゃん止めないと! 」 
「まったく世話が焼ける」 
 苦虫をかみつぶした表情のカウラが覚悟を決めて杉の木陰から飛び出して要の姿を追う。要はすぐに距離を詰めたようで先ほどまでの場所に人の気配は無い。
「キャア! 」 
 明らかにシャムとは違う女性の叫び声が熊の頭の見える辺りで響く。誠もその尋常ならざる驚きの声に残った力を振り絞って枯れ草の中を駆け抜けた。草のついたてを抜けて断崖絶壁にたどり着いた誠の目の前にただ銃を構えて動かないで居る要の背中が目に入った。
「なんでテメエがここに居るんだ? 」 
 誠達がたどり着いてもしばらくじっとしていた要がようやく口を開いた。その視線の先、手にしたバスケットからサンドイッチを取り出して頬張っているシャムの隣には技術部所属の女性士官、レベッカ・シンプソン中尉が腰を抜かして倒れていた。
「その……あの……」 
「だからなんでテメエが居るんだよ! 」 
 いつまで経っても驚きの中から抜け出せずにおたおたしているレベッカに要のかんしゃく玉が炸裂した。カウラが要の銃を掲げた手に静かに手を添えてその銃を下ろさせる間もレベッカはただずり落ちた眼鏡を直すのとなんとか先ほどまで座っていた石の上に座り直すのが精一杯で要の質問に答える余裕は無かった。
「レベッカさん……シャムちゃんから頼まれたんでしょ? 何か食べるものを持ってきてくれって」 
 にこやかな表情を作りつつアイシャがゆっくりとレベッカに歩み寄る。ようやく現われた自分の理解者を見つけたというようにレベッカは引きつった笑みを浮かべつつおずおずと頷いた。
「あ! でも連絡はさっき入れましたよ……班長も本当に困った顔してましたけど……」 
 自分の不始末に謝るレベッカだが、その島田を指す『班長』という言葉を聞くとアイシャと要は顔を見合わせてにんまりと笑った。
「おう、確かに島田には連絡は行ってるみてえだなあ……通信記録もある。島田も……すぐに本部とやらに連絡はしているな」 
 脳内の端末を確認して要が呟く。アイシャはにこやかな笑みをレベッカに向ける。レベッカは先ほどの慌てた表情からようやく落ち着いてきたようでまるで他人事のようにことの顛末を眺めているシャムの隣で大きなため息をついた。
 アイシャはジャンバーから携帯端末を取り出すと笑顔のまま菰田に連絡を入れた。
『あ!』 
 茶を啜っていた菰田の顔が誠が覗き込んだアイシャの端末の中で次第に青ざめていく。
「菰田ちゃん……いいえ、本部長とでも呼んだ方が良いかしら……」 
『シンプソン中尉のことでしたら……忘れてました! 済みません! 』 
 ごたごた言うだけ無駄だと諦めた菰田は素早く頭を下げてみせる。ただ相手はアイシャである。にこやかな笑みを浮かべながらもその表情は怒りで青ざめているように誠には見えた。
「良いわ……後で折檻だから」 
 一言言い残してアイシャが通信を切る。その様子に満足げに頷く要。一方、カウラは最後のサンドイッチを飲み下したシャムのところへと足を向けていた。
「ずいぶんと悠長な態度だな」 
「別に悠長なんかじゃ無いよ」 
 それまでののんびりとした表情がすぐにシャムから消えた。そのまま彼女は断崖絶壁の向こうに目をやる。しばらく続く針葉樹の森。それも限りがありそのまま落葉樹の冬枯れに飲み込まれていくのが見える。
「思い出でも探しに来たか? 」 
「いつも通り直球だね要ちゃんは……でもまあそんなところかな」 
 冷やかす要に苦笑いを浮かべるシャム。その姿はどう見ても小学校高学年という感じだが、浮かんでいる憂いの表情には年輪のようなものが感じられるように誠には見えた。
「吉田少佐の失踪……それなりにショックだったんだな」 
 カウラの言葉にしばらく彼女を見つめた後、静かにシャムは頷いた。
「単純にショックという訳じゃ無いんだけど……なんだかせっかく手に入れた何かをなくしちゃったような感じというか……ああ! なんだか説明できなくてわかんなくなっちゃうよ! 」 
 自分の語彙の少なさに叫んで気を落ち着けようとするシャム。そんな主を静かに心配そうにグレゴリウスは見下ろしていた。
「まあショックならショックでいいじゃないか。心配なら私達に何か言えばいい……」
 緑色の髪を崖を吹き上げてくる風になびかせながらそっとカウラはその手をシャムの頬に寄せた。シャムは静かに俯く。ただ強い風だけが舞っていた。
「ショックというか……俊平が居なくなってからなんだか思い出しそうなことがあって……それでそれを思い出すとなんだか悪いことが起きそうで……」 
「鉄火場の思い出か……陵南内戦の地獄の戦場。確かに悪夢だな」 
 うんざりした表情の要がタバコを咥えながら呟いた。静かにそのままジッポで火を付けようとするが強い風に煽られてなかなか火が付く様子がない。それでもいつもなら苛立って叫ぶ要も落ち着いた様子で静かに試行錯誤を繰り広げている。
「そんな最近の話じゃ無いんだ……俊平と会う前……それ以前に明華や隊長と出会う前……ううん。もっと前だよ、オトウやグンダリと出会う前……うわ! 頭がウニになる! 」 
 頭を抱えて俯くシャム。カウラは何も出来ずにただシャムの隣で立ち尽くしている。
「ナンバルゲニアの名前を継ぐ前か……遼南第一王朝壊滅以前ねえ……それこそ吉田や叔父貴に聞くしかないな」 
 ようやくタバコに火を付けることが出来た要のつぶやきに誠はただしばらく黙り込んで思いを巡らせていた。