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遼州戦記 保安隊日乗 7

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 入り口で立ったままいつも『師匠』と慕うシャムのことを口にする小夏の口元が振えているのを誠達は見逃さなかった。
「シャムちゃん? 何かあったの? 」 
 何気ないアイシャの言葉に神妙な顔の小夏はそのまま彼女の正面の椅子まで行くと腰をかけた。
「最近連絡がないんです。それで今日、電話を入れてみたら……隊にも出てないらしくて……」 
 思わずカウラと誠は顔を見合わせた。
「ああ、あの娘は有給たくさん残ってるから」 
「違うんです!それだけじゃなくてグリンも一緒にいなくなって」 
 小夏の言葉に場が瞬時に凍り付いた。グリン。フルネームはグレゴリウス16世という名前のコンロンオオヒグマの子供である。子供と言っても成長すれば10メートルにもなるコンロンオオヒグマである。優に五メートルはあるあの巨大な熊が行方不明となると問題は質が変わってくる。
「警察には……ってうちに連絡がないってことはランちゃんは手を出さないつもりね……」 
「でもあの巨大な熊が行方不明なんだぞ。クバルカ中佐……何を考えているのか……」 
 こう言う問題では最初からなにもしない隊長の嵯峨を無視して副部隊長格のクバルカ・ラン中佐にアイシャとカウラの心は向かう。
「でもあれだけの巨大な熊ですよ……歩いていたら見つかるでしょ……」 
 苦笑いを浮かべながら呟く誠の顔をアイシャはまじまじと見た後大きなため息をついた。
「誠ちゃん……自分の胸に手を当てて考えてごらんなさいな。あなたもあの娘も法術師。干渉空間を展開して自由に移動できる訳よ……」 
「あ!」 
 誠も言われてみて初めて思い出した。その視線の先では呆れた顔でカウラが誠を見つめている。その視線に誠はただ申し訳なくて俯いてしまった。
「でもどこに……遼南まで跳ばれてたらまずいわね」
「遼南ですか! 」 
 アイシャの一言に小夏が叫びを上げる。シャムの出身地遼南。この東都からは数千キロ西の山奥がシャムの育った森のある山岳地域である。コンロンオオヒグマを初めとする猛獣が暮らす広大な大自然を一匹の熊と小さな女の子を捜して走り回るなどとうてい無理な話だった。
「それは無いな」
 確信のある語調でカウラが断言する。そのあまりにはっきりとした口調にアイシャは感心しながらその切れ長の視線を投げた。
「この前入国手続きの件でナンバルゲニアには話をしたんだ。空間転移で跳んで他国に入国することは不法入国になると教えてやったらちゃんと頷いていた」 
「なに? それだけの理由? 」 
 呆れるアイシャだがシャムの単純な思考を考えると誠もカウラに同調しなければならなかった。
「でも師匠だから……それで心当たりは? 」 
 小夏の言葉にアイシャは携帯端末を取り出す。
「あれだけの熊を連れていたらニュースになるか……ただニュースになるようじゃ困るんだがな」 
 苦笑いのカウラ。その落ち着いた様子に誠は思わず顔を向けた。
「グリンは臆病だからな。だがそれだけに心配だ。兵隊でもそうだが落ち着きのない臆病な奴ほど手に負えないものは無いからな。本当に何をするか分からない……」 
「駄目ね。まるで手がかりは無し!ただでさえ吉田さんの情報もないというのに今度はその相棒?」 
 カウラの言葉が終わるのを待っていたかのようにアイシャが天を見上げる。
「誰にも見られていない場所ですか……ナンバルゲニア中尉はイノシシ狩りをしますよね。その場所とか……」 
 そんな誠の思いつきにアイシャとカウラは顔を見合わせたがすぐに諦めたと言うように首を振る。
「師匠は狩り場を誰にも教えませんから……まあイノシシの被害が出ているところは決まってますから場所の限定は出来るでしょうが……」 
 小夏が呟くと誠もその広大な農地と雑木林を想像して呆然とした。豊川市の西には広大な山々が連なっている。その山々のどこかに潜む熊と少女を見つけるのも十分に骨が折れる話だった。
 だがそんな決断のつかない誠に苛立ったように素早くアイシャが立ち上がる。
「ぐだぐだ話していても始まらないわね……小夏ちゃんは島田君に連絡を入れて。急ぎでない仕事をしている技術部員と楓ちゃんに捜索を頼むわ。それと誠ちゃん……」 
「はい? 」 
 誠の間抜けな返事にアイシャは大きくため息をついた。
「今、寮にいる面子を集めてちょうだい。方策を練るから」 
 アイシャに言われると誠はそのまま立ち上がった。食堂を飛び出すとそのまま玄関に向かう。玄関にはその日の寮に住む隊員の行動予定表があった。
「西川さん、大西さん、シュミット先輩……」 
 おそらく演習準備に余念のない明華に絞られて泥のように眠っているであろう古参の下士官を起こすのは気が引けるがカウラの言うように非常事態だった。ちょうどそこに外から帰ってきた菰田の姿が見えた。
「おう、神前。また……」 
 嫌らしい菰田の目だがそんなことを気にしてられる状況では無かった。
「先輩!大変です!ナンバルゲニア中尉がグリンを連れてどこかに消えちゃったんです!」 
 すぐに菰田の顔色が変わる。管理部の幹部としてグリンの飼育に反対していた菰田。その予想していた最悪の事態。
「おい、ベルガー少佐は食堂か? 分かった。すぐに放送を流して寮に残っている連中を集める。お前はシュペルター中尉の部屋に行け」 
「え? でも放送を……」 
 誠の口答えに菰田は呆れたような表情を浮かべた。
「あの人がそんなもんで起きるか! 鍵は掛かってないはずだからそのまま飛び込んでひっぱたいて起こせ! 俺が許可する」 
 それだけ言うと菰田はそのまま寮の廊下を駆け出していった。
 取り残された誠は仕方なく階段をのぼりはじめた。
 三階の一番奥の部屋。古参の下士官ばかりが詰める三階は誠はあまり立ち入ることのないフロアーだった。二階まではいつも通りにのぼれるが、そこから先はどうにも気が進まない。しかし菰田に頼まれている以上、誠に躊躇うことは許されなかった。
 隊員の入隊除隊の激しい一二階と違って落ち着いた雰囲気の廊下を誠は静かに歩いた。
『緊急事態発生! 各員食堂に集合! 』
 菰田の投げやりな叫びがフロアーに響くが三階のドアはどれも開く気配がない。多くは部隊では換えの効かない重要のポジションのこの階の住人が演習前に非番というのはあまり考えられないことだった。
 しかし法術関連のみの担当と言うことでほとんど誠達と出勤のローテーションが同じヨハン・シュペルター中尉は誠が謹慎中と言うこともあって今日も非番で一日寝ている予定だった。
「全く……よく寝ているんだろうな……」 
「誰が寝ているだって? 」 
 背中から浴びた低い声に誠は驚いて振り返った。
「おいおい、そんなに驚くなよ……トイレに行ってたところなんだが……緊急事態って? 」 
 膨らんだ腹をさすりながら小さな眼鏡を直すヨハン。見ようによっては季節外れのサンタクロースのようにも見えるそのおおらかな表情に誠は息を整えるとそのまま言葉を吐き出した。
「ナンバルゲニア中尉が行方不明なんです。しかもあのグリンを連れて……」