お姫様の決断
気持ち悪いと思い、ビオラは逃げようと後ずさりしようとしました。けれど足は動きません。体中が恐怖で固まっていたのです。
「いいねえ、しばらく女には飢えていたんだ」
「や、やめ」
男はビオラに手を伸ばしてきました。その瞬間、ゴツンと鈍い音がしました。男の表情はかたまり、白目をむいたままずるずると倒れてしまいました。
「ポタ!」
ビオラは思わず、後ろの人影にそう言いました。
「大丈夫ですか?」
そこにいたのはバーセル王子でした。
ビオラは力が抜け、そのまま座り込んでしまいました。
どんな顔をしていいのかわからず、ただ茫然とバーセル王子の顔を見ました。その顔がきっと安心した顔だとバーセル王子は思ったのか、やさしく頭をなでてきました。
それは全然気持ちよくありませんでした。
雨はいつの間にか止んでいました。ですが空はどんよりと暗いままで、月明かりはどこも照らしていませんでした。王子はたいまつであたりを照らしながら、ビオラの手を引っ張っていました。
「いやあ、驚きましたよ。まさかあの男、岩を私の頭にぶつける仕掛けをしていたなんて、おかげで気絶してしまいました」
ビオラは何も言いません。
「でも、すぐに目覚めましたよ。私だって訓練を積んでるんです。あの程度平気です」
ビオラは何も言いません。
「まるでおとぎ話みたいですよね。王が国どころか隣国にまで姫が誘拐されたことを広めて、国を挙げて大捜索です。時間はかかりましたが、無事で本当によかった」
ビオラは何も言いません。
「その汚い服は誰のですか? まさかポタのですか? まったく、粗末なものを着せたものだ。どうせ姫への待遇も、ひどいものだったんでしょう」
ビオラは何も言いません。
「姫様、でももう安心してくださいよ」
近くの木に囲まれた大きな池に差し掛かったあたりで、王子は言いました。
「ポタの野郎には、きちんとした制裁を加えました」
ビオラは何も言いません。
「腹には、剣を深く差しこんでやりました」
ビオラの足が止まりました。
「血を流して、あいつは地獄に落ちました。だから、もう心配しなくていいんですよ」
ビオラは足をとめたまま、俯きました。
「どうしました?」
「ねえ」
「はい」
「私ね、ずっと待ってたの」
「はい」
「ずっとずっと、運命の王子様が来てくれるのを待っていたの」
「光栄な話です」
「ずっと、ずっとよ。ずっと待ってたの」
「はい、わかってますよ」
「でもね」
「はい」
「あなたには、こんなところまで来てもらって、すごくうれしいわ。カッコいい剣に、カッコいいマント。カッコいい顔に、もう最高よ。でもね」
王子はビオラが何を言いたいのかわからず、茫然としていました。雲が少しだけ薄くなり。まん丸のお月さまが顔を出しました。
「あなたじゃないの、ごめんなさい」
ビオラはバーセル王子の背中を押しました。その先には池がありました。バーセル王子は体勢を崩し、そのまま池にばしゃんと音を立てて落ちました。
「うわっ! つつ、冷たい! 姫様、なんてひどい!」
王子の声に耳を傾けることなく、ビオラは山を駆け上がりました。足の裏の痛みも、寒さも忘れて走りました。途中で蜘蛛の巣にひっかかりましたが払いのけました。落ちてる小枝を踏み、枯れ葉を蹴散らし、水たまりをよけることなく、足をぬらし、水しぶきを散らしながら、そのまま進みました。
遺跡は山の上にあります。だからビオラはただひたすらに上を目指し続けました。
どれくらい走ったかわかりません。ですがビオラは、ポタが台車を引きながら、こんな険しい道を越え、自分を運んでいたことに、たまらない罪悪感がわきあがりました。それだけではありません。誘拐を頼んだこともそうですが、王子が、いいえ、王子でなくとも誰かが姫を助けに来れば、ポタは無事では済みません。殺されることくらい、考えたらわかることでした。なんて考えなしだったの! ビオラは心で自分を呪い、ポタにごめんなさいと謝り続けました。
でも、そのポタが死んだ。そんなことを信じたくなくて、ビオラはひたすら昇り続けました。
頂上にたどり着きました。ずっと暮らしていた遺跡の街並みに、胸をなでおろしました。ビオラはポタを探しました。遺跡の隅から隅まで目を凝らしました。そして、最後に二人の寝泊まりしていたあの家にたどり着きました。
中を見ました。
おなかにべっとりと赤い染みがついたポタが、目を閉じて倒れこんでいました。
ビオラはその姿に泣き崩れました。
「ねえ、起きてよポタ」
ビオラはポタの体をゆすりました。大きな体は、まだぬくもりが残っていました。
「ねえ、ポタ! ごめんなさい、あんなこと言いださなければ、あなたは死ぬことはなかったのに。ごめんね。ごめんね。ねえ、私の王子様はあんなやつじゃないの。もっともっと素敵な奴なのよ。ねえ、ポタ。二人でもっと遠いところに逃げて、暮らしましょう。いつかきっとカッコいい王子様がまた私を助けに来てくれるわ。あんまりよくなかったら、そうよ、また逃げて、それで、ずっとあんたと一緒! ねえ、素敵でしょ! 私約束するわ。自分のことは全部自分でするし、わがままも言わない。嫌なことだってがんばるわ。あんたみたいにやさしい人になるから。ねえ、お願い。目を開けてよポタ!」
横たわるポタの顔を見ました。ポタの豆のような小さな瞳が、やさしくビオラを見つめていました。
「そいつは素敵ですなあ、姫様」
ゆっくりと、その声はビオラの耳に届きました
ビオラはポタのほほをばしんと手のひらで叩きました。
ポタの服の中からは、つぶれたトマトがごろごろと出て来ました。
ポタは生きていました。おなかにたくさんのトマトを詰めていて、死んだふりをしていただけでした。さらに一晩中ビオラの看病をしていたので、眠りこけていただけのようでした。
ビオラは泣きじゃくりながら、ポタのおなかをグーでポカポカと叩き続けました。
「さすがに刺されるときは冷や汗ものだっただよ」
ひとしきりビオラの攻撃を受け終わった後、ポタはそう切り出しました。
「よくやるわ、死んだふりして、そこからは?」
「この間言った通りだよ。国を逃げるつもりだっただ。よその国で、のんびり野菜を育てるつもりだっただよ」
「のんきなもんね」
二人は焚火を囲み、いつものように座って話をしていました。まるで王子様がまだ助けに来ていないときのようです。
「なあ、姫様」
「なに?」
「なんで、戻ってきただか?」
ビオラはその質問にどうこたえていいかわからず、膝の上に乗せたこぶしを、ぎゅっと握りました。
「なんで、石をぶつけただか?」
それにもビオラは答えません。
「王子様は、どうしたんだ?」
ビオラの反応は変わりません。ポタはため息をつき、立ち上がりました。
「どこいくの?」
「今晩はごちそう、作ってやるだよ」