お姫様の決断
遠ざかる意識のさなか、ポタの必死な呼びかけが聞こえていました。
目が覚めた時はあたりはすっかり暗くなっていました。頭は熱く、体はゾクゾクと寒気が残っています。
「お、大丈夫だか?」
ビオラのおでこに乗っかっていたのは、濡れた小さな布でした。おでこを触るとほんのりと熱があることに気がつきました。ぞくぞくと寒気がし、体は鉛のように重たかったのです。
「まさか風邪ひいちまうとわな、いいだよそのまま寝てて、無理しちゃいかん」
ビオラはかすれた声で尋ねました。
「あなたは、大丈夫なの?」
「あの程度、へっちゃらだよ」
「でも、結構流れも速かったし」
「姫様のためなら、あのくらい平気だよ」
「……生意気、デブのくせに」
ありがとう、と言いたかったのですが、照れくさくてうまく言えませんでした。
その日ポタは、朝までビオラの頭を冷やすため、起きていました。ポタの作った即席のお粥は、とてもまろやかで、やさしい味がしました。
「ごめんな姫様、野菜と少ないお米しかなかったから」
「別に」
これがポタの作った野菜と思うと、なんだかとても美味しく感じられました。
「王子様、きっとすぐきてくれるだよ」
「ねえポタ、あなたは私が王子様に助けられた後、どうするの?」
「家には帰れねえだな、誘拐犯の罪は重いだ。こっそり逃げ出して、遠くの国で暮らすだよ」
「……あなた、この国の生まれでしょ」
「ああ、そうだよ」
「国を、捨てるの?」
「それしか方法はないだ」
ビオラは、今は王子様と一緒になることより、ポタと一緒にいることだけを考えていました。
「なにか方法はないの?」
「だって、姫様を誘拐するってのは、それくらいのことですだ」
「……なんで、そこまでしてくれたの?」
「頼まれたからしかたないだ」
「……本当?」
「ああ、本当だ」
ポタの笑顔はすべてを包み込むほどの、優しいものでした。その笑顔を見ていると、王子様のことなんて忘れてしまいそうでした。
「王子様、くるといいだな」
ポタの言葉に答えたかどうかは定かではないまま、ほどなくビオラは目を閉じ、眠りの世界に行きました。
夢は何も見ませんでした。
まどろみの中、ビオラは目覚めました。部屋にポタはいません。もう外は明るくなっていました。寒気はすっかりなくなり、体も軽くなっています、どうやらポタの看病のかいはあったようです。
「これ、西日だわ。もう夕方になってしまったのね」
ビオラはどうやら丸一日眠り込んでしまっていたようです。ポタはどこに行ったのでしょうか。すると、外から声が聞こえます。
「貴様! 早く姫様を出せ! ここに隠しているのはわかっている!」
どこかできいたことのある、透き通ったカッコいい男の人の声でした。
「さあ、そいつはオラを倒してからだな。このたくさんの建物の中、どこにいるのかあんたにわかるのかな」
ポタの声も聞こえます。何やら言い争っているようです。ビオラは顔をひょこっと出しました。剣を片手に持ち、マントを翻し、きりっとした眉をした男性でした。何度か離したことはあり、アリアともカッコいいと話していました。
隣国、デュシャンヌ王国の王子様、バーセル王子です。
ついに念願の、ビオラの待ち望んだカッコいい王子様が来てくれたのです。
ですが、ビオラの顔から笑顔は消えました。ポタに今にも切りかかりそうなバーセル王子の姿より、棍棒を片手に持ち、おなかをふくらましたポタのほうばかり見てしまいます。力の差は歴然です。のろまなポタなんか、バーセル王子はすぐにやっつけてしまうでしょう。
「覚悟しろ、このけだものめ!」
バーセル王子は剣を振りかざし、ポタのほうへ駆けだそうと、一歩を踏み出そうとしました。ゴツン! とバーセル王子の頭になにか固いものが当たりました。それは玉ねぎくらいの大きさのとげとげした岩でした。
ポタは何事かと岩が飛んできた方向を見ました。そこにはビオラがいました。立ちすくみ、両手には落ちていたものをさっきまで持っていたように、泥が付いていました。バーセル王子は頭にたんこぶを作り、寝込んでいました。
「……姫様、どうして?」
ビオラはその問いに答えることなく、ポタに背を向けました。
そしてそのままはだしでかけだしました。草や泥や石の感触が痛くて、一歩踏み出すたびに激痛が走りました。日はどんどん傾きながら、ビオラの姿を闇に隠そうとしていました。
ビオラは自分が岩を王子様にぶつけたことを、ようやく自覚することができました。
それと同時に流れてきたのは涙でした。
ほほをぬらし、ただ息を切らしながら走り続けました。
頭の中は、逃げることだけでいっぱいでした。でもビオラは、自分が何から逃げているか、わかりませんでした。
四 あなたじゃないのよ
日はすでに沈んでしまっていました。ビオラは自分がどこにいるのかもわかりませんでした。まるでお妃さまから逃げて、森をさまよっている白雪姫の気分でした。真っ暗で何も見えず、しかも疲れと足の痛みでビオラはもう動こうとは思えませんでした。
たまたまあった近くの洞窟に逃げ込みました。洞窟の中も外も、同じくらい暗いのに変わりはありませんでしたが、その閉塞感は、いくらかの安心感を与えてくれました。外ではしとしとと雨の降る音がします。洞窟にきて正解だとビオラは思いました。
どれくらい時間が経ったでしょう。ビオラはだんだんと心細くなってきました。王様と女王様の顔がまず浮かびました。いっぱい迷惑をかけたことを、謝らなければいけないなと思いました。
次にアリアの顔が浮かびました。アリアは今頃どうしているのだろう。私のことを心配しているのだろうかと、考えていました。
次に浮かんだのは、ポタの顔でした。
ポタが今どうしているかとか、そういうことを思い出していたわけじゃありません。
ポタとの時間を思い出していました。一緒にご飯を食べて、遊んで、話して、楽しかったあの時間は、何よりもの宝物でした。
バーセル王子の顔が浮かぶことはありませんでした。
雨がだんだん強くなり、ビオラの不安は一層強くなりました。ゴツゴツした地面では、眠りにつけるはずもありません。ビオラは途方に暮れました。どうしてあんなことをしたのだろう。ポタを王子がやっつけて、それで王子様に連れられて帰ればそれで済む話じゃないかと、もう十ぺんは心の中で唱えていました。
「なんで私はあんなことしちゃったのよ」
そうつぶやきました。雨の音は強まる一方でした。
しばらくしたら、足音が聞こえました。ビオラは伏せていた顔をばっと上げました。胸がどきどきしています。
足音のほうに少しずつ近づきます。ほんのりろうそくのような小さな明かりが見えました。「ポタ? ポタなの?」
そうききました。そのあと、ビオラは明かりに照らされました。それと同時に足音の主も照らされました。その男は無精ひげを生やし、頭はフケで真っ白な、あまりにもみずぼらしい男でした。
「お、女の子じゃねえか」
そのヘドロのような汚らしい声に、ビオラは不快感を覚えました。
「へへ、結構かわいいじゃねえか」