二人で笑おう
今日の私は、嘘をたくさん吐いた。失明後の彼との人生なんて考えてない。なぜなら存在しないから。厄病神の私にはこれが調度いい。
私を愛した人は不幸になる。私を愛した両親も、引き取ってくれた曾祖父も、優しくしてくれた叔父も、みんなみんな
死んでしまった。
今の私の保護者は、私のことを人として見ない、叔母だ。彼女は私を愛してない、ただの義務として保護しているだけだ。
その上で、彼は私に優しくしてくれた。優しい彼は、失明しようが、両手両足を失おうが、脳みそだけになりホルマリン漬けにされようが、確実に私の傍にいる。目が見えない私に世界を教えてくれるだろう。だけどそれは、続ければ続けるほど、彼と私の世界が共有されていないという絶望に変わってしまう。絶望で彼は埋め尽くされる。そして私も絶望する。
ならばどうする? 答えはシンプルだった。
私が死んでしまえば、彼の負担はなくなる。彼は私以外の幸せを見つける。それが一番だ。彼を不幸になんてさせるものか。
これを決めたのはいつだろう? もう覚えていない。入院して間もないころだろうか。まあ、こんなことはどうでもいいのだけれど。
左手を伸ばす、破れたフェンスに手が当たる、ちくっとした痛みが手に広がる。そこからさらに二歩、これでこの病院の屋上のぎりぎりの位置に辿りつく。杖を後ろに放り投げる。カランという音がした。そしてしゃがんでみる。手を下に伸ばす。屋上のアスファルトに手はつかず、風を感じた。私が今いる場所の完全把握がたった今完了した。
再び立ち上がる。さあ、行こう、彼の幸せを願い、厄病神は彼の世界から退場しよう。彼の世界にもう私は不要だ。
バン! と大きな音がした。風で扉が開いたのだろうか。
「お邪魔します」
聞き覚えのある声がした。彼の声だった。
「お帰り下さい」
今日の最初のやり取りと本能的に同じ答えを返した。なぜ?なぜ彼は来るんだ? なぜわかったんだ? たくさんのなぜ? が私の中で渦巻く。
「あのさ、どうして?意味わかんない」
余裕を持って喋ろうとしても、私の声は震えていた。さっきのお帰り下さいの余裕が出せなくなっている。
彼は私の問いかけを無視し、何も言わなかった。未だ屋上のフェンスの奥に立っている私には、距離からして恐らく目が見えなくても彼の表情は見えないだろう。彼は今、どんな顔をしているのだろう。
そう考えていると、ゆっくりと足音が風の音に紛れて私の方へ近づいてくる。
「来ないで!」
私は拒絶した。彼の優しさを。もう私には受け取ることができない。それでも彼の足音は鳴りやまない。
「なんでよ、なんで来るの? せっかく自分で決めたのにさ、邪魔しないでよ、あんたなんか嫌いなの、気持ち悪いの、だから……だから……」
本心を隠し、嘘で塗り固め、涙声になりながら彼を拒み続ける。これが正しいという自己暗示をかけながら。しかし、私の訴えは届かず歩みは止まらない。やがて足音は鳴りやんだ。彼は今私の横に立っている。
「おー、いい眺め」
能天気に彼はそう言った。
「止めてもさ、私は」
「なに言ってんの?」
私の言葉を待たずに不思議そうに彼は言う。焦りはどこにも見当たらない。
「僕さ、今君がなにをしたいかくらいはわかるよ」
「だから?」
彼は何が言いたいんだ?あんなメールを送ったのに、その上でここまできて止めにきたんじゃない?じゃあ
「僕は君の意志を尊重する」
「は?」
学校の先生のような台詞に思わず間抜けな声が出た。
「だから」
彼は同じトーンで続ける。そして私を腕で優しく包んだ。それは、まるで春の風のように、温かくて、心のどこかがストンとおさまったような気がした。それは、パズルのピースがぴたりとはまるようにも感じた。
「一緒に死のうか」
安心の後に彼は言った。一瞬何を言っているかがわからなかった。こういう場面だったら、奇麗事を淡々と並べて説得をするのがお約束のはずだ。どうやら彼の場合お約束は通じないらしい。私は彼を舐めていた。
ああ、そうだ。彼はそういう人間だった。
「よし、レッツゴー」
え? と言う暇もなく、私は彼と一緒にゆっくりと、宙に向かって倒れこんだ。頭がパニックになる、叫びたい気持ちもたくさんある、だけど声も出ない。
死にたくない。
落ちる瞬間そう思った。私と彼は重力に従い、下へ下へと落下していった。
3『眺め』
落ちていく中、僕は目を閉じていた。押し寄せてくる、痛いくらいの風に二人で身を任せているのが、痛くもあり、心地よくもあった。そして
びよ〜ん、と、僕と彼女は上へと跳ね上がる、そして、何回か収縮を繰り返し、僕の腰を結んだバンジー紐は静止した。真っ逆さまのオレンジ色の街が僕の視界に広がる。
「……え?」
彼女は呆然とそう漏らした。彼女の顔は僕の胸に埋まっていて残念ながら拝めそうにない。
「どうですか? 人生初のバンジージャンプの感想は」
僕は彼女に、できるだけいつも通りの感じでそう言った。
「嘘をつく時にはさ、あんまり普段と違う事しちゃ駄目だよ」
僕の言葉に、彼女は何も答えない。言葉を続けた。
「君が一行以上のメール、僕に送ったことないだろ」
だから、なんとなく、彼女が死ぬことは分かった。そこからの行動は早かった。卓也へと電話をかけ、彼からバンジー用の紐を借り、一緒に病院へと向かった。彼女は案の定もう病室にはいなかった。そして今日の会話に登場した本命の屋上へと走った。長い紐を抱えた男二人が病院を走り回る姿はさぞ滑稽だっただろう。
到着後、ドアを開ける前に僕の腰にロープをセットし、彼には上で待機してもらっていた。後方数メートル先で告白をきかれたのは少し恥ずかしかった。
彼女の事だ、恐らく寝て起きたら失明していてどうせ僕にやれ迷惑かけたくないやら不幸にしたくないやら、自分以外の幸せを見つけて生きていってとか、そういう考えだろう。
なにを馬鹿な、僕は君とならいくらでも不幸になろうが構わないよ。
君と一緒に不幸? 最高じゃないか、本望だ。それに君がいない人生になんて価値も未練もない。なんてことを国民的アニメの劇場版の父親が言っていたな。僕もあの父親に全くの同意見だ。
僕と君の世界は共有できなくなるかもしれないけど、傍にいる事くらいはできる。それが君の幸せに繋がるかどうかは疑問だが、僕の最低限できる事くらいはしてあげたい。
なんて長ったらしいかつ臭い言葉は、僕が口に出したところで信憑性を失うだろう。下で走っている車の走行音やら、鳥の鳴き声やら、風の音がこの僕の気持ちをある程度は代弁してくれていることにしよう。そしてなにより、この行動が僕の答えだ。
さあ、彼女の人生初のバンジージャンプの感想でも聞こうか。嫌われている可能性が大いにあるため、ある程度ひどい罵りは覚悟しておこう。
「ふふっ………」
怒鳴られるかと思っていた、しかし彼女は笑っていた。そして
「あっはっはっはっはっは!」
彼女は、今までにないくらいの、大きな笑い声を上げた。今までの感情が希薄な彼女とは大違いだ。しばらく彼女の笑い声を聞いていると、いつの間にか