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二人で笑おう

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 目を覚ます。僕を温めていた太陽は、もう傾いていた。ポケットから携帯を取り出し、開く。受信されていた一件のメールを見た。三度ほど読み返した。メールボックスを閉じ、僕は卓也に電話をかけた。





















 2『私』

 彼がトイレに行ってから数分後、私は逃げだした。彼から私は逃げだした。自分でも理由はよくわからないけど、怖かったことだけは覚えている。
 何が? 何が私は怖かったの?
 彼の優しさ? ひたむきさ? 愛? わからない。考えれば考えるほど、逃げた理由がわからなくなってくる。なにをしているんだ私は。早く戻って……・いや、彼に電話をして謝らなければ。頭では理解はしている。だけどできない。
 杖を持ってひたすら走って気が付いたら、病室のベッドにうずくまっている私がいた。布団は涙で濡れていた。ああ、そうか私は泣いていたんだ。なぜ?自分のため? 彼のため? 何の涙かすらわからない。私は考えるのをやめた。
 そして目を閉じた。うす暗い私の曖昧な世界が閉ざされる。
 彼といると、時々まぶしく過ぎて嫌になるのだ。私に持っていないものをすべて持っているようで、自分が彼の隣にいてはならないような感じがして。そして眠りに落ちるんだ。私の逃げ場所の夢の中へと。
 眠りの直前まで、脳裏に彼のことが浮かんだ。
 彼の笑顔が浮かんだ。
 彼の声を思い出した。
 病院の壊れたフェンスを思い出した。
 曖昧な青空を思い出した。
 子供たちの騒ぎ声を思い出した。
 きらきらと光る海を思い出した。
 目の前に舞った桜の花びらを思い出した。
 そしていつの間にか私は、眠りに落ちていった。
 夢の中で私は、




               が




              つい   で

 睨まれて

               牢屋の中が
  
  叫び 
       鳴き

                 乾いて

       声が出なくて
                      闇 闇 闇 闇
               だった、そして泣いていた


 曖昧な世界の隙間から、耳に午後五時にかかる、ゆったりとしたトロイメライのメロディが入ってくる。ああ、もうこんな時間か、結構眠ってしまった。夢を見た気がするが思い出せない。だが不快感だけは確かに残っていた。胃袋の中が気持ち悪くて、思い出すのを諦め私は目蓋を開いた。
 目蓋の先にあったのは暗闇だった。もう一度目蓋を閉じる。そこにもあるのは暗闇だ。再び開ける、暗闇、そして閉じる。結果は変わらない、暗闇だ。
 停電か?と思った。耳を澄ましてみる。廊下ではいつも通り看護師や入院患者の雑談の声が聞こえた。停電の様子はない。窓の方へ顔を向ける。夕日らしきオレンジの光が見えた気がする、がそれだけだ。暗闇にうっすらオレンジが加わったようにしか感じられない。頭の方の枕へと手を伸ばす、枕の存在を確認する。そして横に置いてある時計に触れる。
 『ただいまの時刻は、午後、五時、一分です』
 手に持った時計をもとの場所へ戻す。ああそうか。私は理解した。
 私は光を失った。
 自覚した瞬間に涙がとめどなく溢れてきた。さっきまでの冷静さが不思議になるくらいに。しゃっくりの様な私の嗚咽が部屋に響く。鼻水が口に入る。しょっぱかった。涙も一緒に入ってくる。しょっぱさは二割増しになった。覚悟はしていたことだ、だけどこんなにも早く来るとは、昼寝して起きたら失明なんて、思っていなかった。どこか他人事のように感じていた。現実を目の当たりにしての私のこの現状にひどく苛立った。
 こうなることは、分かっていただろ? 私。なら、やることはもう決めていたじゃないか。泣いている暇があるなら早く実行しろ。さあ早く、さあ早く。携帯電話を取れ、そして何度も目をつぶって練習した動作をしろ。メールメニューを開き、送信ボックスを開け、そしてあらかじめ打っておいたメールを送信しろ。いつだって私のことを気にかけていてくれて、傍にいてくれた彼に、さあ!

 ピロリンと、送信完了の音が聞こえた。私はため息をつき携帯を普段開く逆方向に力を入れ、携帯を壊した。手を怪我したかもしれない。
 ああ、これでいいんだ、彼は私といたら不幸になる。たった今視力を失い、彼の見ている世界と私の見ている世界は共有できなくなった。今日から私は、彼とは別の世界で住む事になった。
 彼の幸せを、彼の人生を私に潰す権利はない。
 私は手さぐりで杖を捜した。棒らしきものが指に当たる。手を棒の先のほうへスライドする。先っぽは案の定でっぱりがあった。杖だ。杖を手に持ち立ち上がる。上手く立てず、バランスを崩して、床に横から倒れ込んだ。床のひんやりとした感触が、頬に伝わってくる。腕に鈍い痛みが広がる。痛みが引いてから、杖を頼りに重い体を起こしながら、一度後ろのベッドを触り、今私が部屋のどの方向を向いているかを再確認した。前へ進む、杖が何かに当たった。触ってみる。ドアノブを確認した。ドアノブをひねり、扉を前に開く。前に誰もいないことを気配と杖を前にいくらか出して確認し二歩歩く。点字ブロックがある。よし、練習通りできている。病院独特の慣れた薬臭い匂いがいつもより強く感じる。視力を失ったせいだろうか? しばらく嗅いでいたいところだったが怪しまれるとまずい、練習通り点字ブロックを進む。途中で人の気配が通り過ぎた気がしたから、頭だけ下げた。こんにちはと言われた。少し嬉しかった。
 廊下を進むと、階段の分岐点に着いた。ここは右だ、左は下の階になる。目指すは屋上だ。杖で階段の一段目の存在を確認する。これも練習で何回もやってきたことだ。そして一段一段慎重に上る。誰にも見られないことを切実に願った。踊り場の折り返し地点に出る。これも点字ブロックを辿れば問題はない。折り返しを終えまた一段目を杖で確認、また一段一段慎重に上る。十四段目で、扉の手前スペースへとたどり着いた。完璧だった、どこまでも。杖で扉の存在を確認。そしてポケットに手を伸ばす。ポケットの中にある唯一のギザギザの棒状の物体を取り出す、ギザギザをドアノブに触れながら確認した穴に差し込む。私は棒を時計回りに
回した。かちゃ、と解錠の音が響いた。ドアノブをひねる、そして手前にひっぱる。風が私を包み込んだ。
 春独特の暖かい風は気持ちよかった。めいいっぱい深呼吸をする。甘い香りがした。肺いっぱいに綺麗な空気が満たされる。
 さあ歩こう、壊したフェンスまで二十三歩だ。一歩一歩、歩幅を一定に……
足が震えているのが自分でもわかった。自分がなにをしているんだろうという気分にさえなった。だけど、これは私が決めていたことだ。
 彼は優しい、とても。こんな私のために全力で優しさをくれた。
 喜びを、笑顔を、ぬくもりを、愛を、たくさん。
 そんな彼だから、愛おしい彼だからこそ、私は決めたんだ。
 彼の、あなたのことが
「好きだから」
 目が覚めてから初めて言葉を声に出したかもしれない。声はひどくかすれていた。
作品名:二人で笑おう 作家名:ろくなみ