森に棲む男
ドアには鍵がかかっていなかった。あの日、怯えるノアを連れ、荷物も持たずに飛び出したときのままだ。
部屋のなかは埃で埋め尽くされ、饐えた匂いが鼻をついた。リビングのソファには脱ぎっぱなしのセーターが丸まっていた。棚のうえや壁にふたりの写真が飾られている。写真たてから抜き取り、ジャケットのポケットにていねいに入れた。
棚にはレコードが何枚も保管されていた。今では骨董品と化した十二インチのアナログレコード。ノアのコレクションだ。おれは興味なかったが、ノアは古い音楽が好きで、ヴィンテージショップで買ったプレイヤーをつかい、よく聴いていた。ジョイ・ディヴィジョン、Tレックス、エアロスミス。ワインを飲みながら、音楽にあわせて踊った。
なかでも、ノアのお気に入りはルー・リードだった。七十年代に活躍し、おれたちが生まれるずっと前に死んだニューヨークのアーティスト。モノクロジャケットのレコードを抜き出し、針を落とした。
掠れた音が流れる。どこか醒めた歌声にあわせて、うろおぼえの歌詞を口ずさんだ。
ベルリンの、壁の脇で
きみの背丈は五フィート十インチ
あれは、とても素敵だった
突然、物音がした。おれは咄嗟に振り向き、ボウガンを構えた。
「だれだ?」
音はキッチンからした。レコードを流したまま、いつでも引き金を引けるようにボウガンを両手でしっかり抱えて、おれはゆっくりとキッチンにちかづいた。
壁に右半身を摺り寄せ、素早くキッチンに飛びこんだ。
「動くな!」
叫んでから、立ちすくんだ。自分が見ているものが信じられなかった。
「ノア……」
ネルシャツにズボン姿のノアが、冷蔵庫の脇で膝を抱えていた。
「動くんじゃない!」
立ち上がろうとするノアを厳しく制する。声が震え、唇がぎこちなく歪んだ。
「ローランド……」
「うるさい、黙ってろ!」
ボウガンを向けながら、唾を飛ばす。膝が震え、目眩もする。想像すらしていなかった事態に、おれは完全に冷静さを失っていた。いや、想像していなかったわけではない。どこかで信じていた。こうしてなにごともなかったかのようにノアが目の前に現れるのを。
「いいか。よけいなことはしゃべるんじゃない。おれの質問にだけ答えろ。わかったな?」
ノアのかたちをしたものが小さく頷く。
「よし。まず……おまえはだれだ?」
「ノアだよ」
「うそだ。ノアは死んだ」
「死んでない。感染しただけだ」
「奴らの仲間になっただろ。“クランケ”に」
床に手をつき、ノアのかたちをしたものはじっとおれを見上げていた。青い目が涙で濡れている。
「ミシガンの実験室でワクチンが完成したんだ。試験的に投与されて、元の姿にもどった」
「信じられるか、そんな話」
「本当なんだ。ほかにもたくさん患者がいるけど、外はまだ危険だから、基地のなかで生活してる」
「じゃあ、なんでおまえはここにいる」
「脱走してきたんだ。きみに会いたくて……」
ノアの目から涙が溢れた。縋るような眼差しに、おれの胸は詰まった。
「ここにくれば会えるんじゃないかと思った。ここはおれたちの家だから……」
おれは視線を泳がせた。あまりに唐突すぎる話だった。混乱して、まともな思考を取りもどすことができない。
「ローランド……」
「やめろ。近寄るな!」
下げかけていたボウガンを構えなおす。ノアはびくっと肩を強張らせておれを見上げた。
「信じてくれ。ローランド。本当にぼくなんだよ」
自分の喉が鳴る音がはっきりと聞こえる。こめかみを汗がつたい、体温が烈しく上昇しているのがわかる。
「……おれが好きな野球チームは?」
「レッドソックス」
ノアは迷いもせずに即答した。
「おれたちがはじめていっしょに観た映画は?」
「レザボア・ドッグスのデジタルリマスタリング版」
「最初のデートの場所は?」
「ジェノ・ストリートで寿司を食べて、そのあとアルの店でビールを飲んだ」
おれは大きく深呼吸した。ボウガンのグリップを握る手が汗でじっとりと濡れている。
「脱げ」
「なんだって?」
「服を脱げ、早く」
ノアは躊躇いながらもシャツを脱いだ。裸の右肩に、銃弾の痕がくっきりと残っていた。
おれの手からボウガンが滑り落ちた。
「ノア……」
おれはノアに駆け寄り、その体を思い切り抱きしめた。
「ローランド……」
嗚咽を漏らしながら、おれたちはきつく互いを抱きしめあった。
森のなかを歩きながら、ノアは不安げに周囲を気にしていた。
「こっちだ」
手を差し伸べると、ぎゅっと握り返してくる。懐かしい手の感触。おれはまた泣いてしまいそうになり、顔を逸らした。
「足元に気をつけろ。右側に罠が仕掛けてある」
「罠だらけだ」
「用心のためだ。何度か奴らがちかづいてきたけど、ここまでは辿りつけなかった」
家に入ると、ノアはようやく緊張を解き、おれの腕に寄りかかった。
「よかった。生きていてくれて」
おれはボウガンを置いてノアを抱き寄せた。頬に手をあて、顔を覗きこむ。そうしなければ幻のように消えてしまうのではないかと思った。孤独が見せる幻覚ではないかと、今でも思っている。しかし、ノアは煙のように消えてなくなることもなく、恥ずかしそうに微笑んでいる。
「おれも、おまえを失ったと思っていた」
くちづけ、抱きしめる。唇の熱さも、肌の手触りも、なにもかも昔と変わらなかった。十五年ぶんの年は重ねているが、あの頃と変わらないノアだった。
「おれをゆるしてくれるか?」
おれの問いに、ノアは怪訝そうに眉を顰めた。
「おまえを車のなかに置き去りにして逃げた」
「ぼくがそうしてくれっていったんだ。ローランドのせいじゃないよ」
ノアはやさしくいって、おれの肩に頭をもたせかけた。控えめな重みが、おれの心を溶かしていった。
ずっと気になっていた。森でノアを見棄て、ひとりだけで逃げたこと。解き放たれた思いで、おれはノアの髪に頬擦りした。
缶詰とパスタでノアが料理をつくった。とっておいたフルーツ缶と粉クリームもつかった。シェルターのなかに椅子を持ちこみ、ベッドに板を置き、クロスを張って、向かい合わせになって夕食を食べた。
ワインを飲みながら、たくさん話をした。ふたりとも饒舌で、よく笑った。
「あのときのローランドの顔。真っ赤になって、こっちが心配になるほどだったよ」
グラスを持った手を掲げながら、ノアが笑う。
「しょうがないだろ。おまえは親友だったし、気持ちを告白したら、軽蔑されると思ったんだ」
「軽蔑なんか……嬉しかったよ。ローランドは昔からぼくがいじめられてるのを助けてくれたし、ぼくなんかのことをずっと好きでいてくれた」
食事を終え、おれたちは並んでベッドに座っていた。ランプの灯りの下で、昔のようにワインを飲みながら話していた。
両親に棄てられ、施設で育ったおれにとっても、ノアはたったひとりの友達だった。おれたちは互いになくてはならない存在で、恋人同士になってからも、それは変わらなかった。あんなことがなければ、ずっとこうしていられたはずだった。
「香港に旅行に行ったこと、おぼえてるか?」
「もちろん。楽しかった。一日中遊んで、船にも乗ったよね」