森に棲む男
ショッピングモールの前でオートバイを停めた。リアシートに積んでいたボウガンを肩に抱え、周囲を見渡す。しんと静まり返り、生物の気配すら感じられない。
足早にショッピングモールのなかに入る。缶詰やパスタ、小麦といったものが並んだ棚に向かい、もう片方の腕に提げていた袋に詰めこんだ。盗難を咎めるものはなく、罪悪感をおぼえる必要もない。
袋がいっぱいになると、急いで出口に向かう。長居は無用だ。
ドアを押そうとしたところで、おれは足を止めた。ゆっくりと振り返る。まさか。気のせいだ。そんなことあるはずがない。
苦笑いが固まった。幻聴ではない。たしかに、子どもの泣き声が聞こえたのだ。
おれは袋を床に起き、ボウガンを構えた。音を立てないように注意しながら店の奥へとすすむ。
地下駐車場に下りる非常階段のドアが開いていた。声はその奥から聞こえているようだった。
「だれかいるのか?」
恐る恐る声をかけてみたが、返事はない。ドアの前で、おれは躊躇った。店内には太陽の光が差しこんでいたが、ドアの向こう側はほとんど真っ暗闇だった。
しかし、退くことはできなかった。呼吸を整え、思い切ってドアを押した。
茶色い毛をした子犬が飛び出してきて、おれは声を上げた。あやうくボウガンの引き金を引くところだった。全身で息をつき、子犬の前にしゃがみこむ。
「なにやってんだ、おまえ。よく生きて……」
おれが伸ばした手が届くよりも一瞬先に、子犬の体がふたつに裂けた。おれは反射的に飛びのき、非常階段に向かってボウガンを向けた。
ドアの隙間で黒い影が首を擡げる。空気を振るわせるような叫び声。おれは迷わず引き金を引いた。
ボウガンの矢が影を突き抜け、悲鳴が上がる。どすんと大きな音がして、相手の上半身がドアのこちら側に倒れてきた。
てらてらと濡れた頭が、太陽の光に溶けて煙を上げる。ひどい匂いに顔をしかめ、矢を抜き取った。
「やれやれ」
汗を拭いながら、ブーツの爪先で“クランケ”の体を引っくり返す。自分の体の何倍もある“クランケ”に潰されて、子犬はほとんど毛と肉の塊になっていた。
「友達になれたかもしれなかったのにな」
ここ五年ほどは犬や猫といった小動物ともほとんど出会えていない。食糧としてよりも、話し相手として、その存在を欲していた。かすかな鳴き声を子どもの声と勘違いしてしまうほど、おれは自分以外の生物に渇望していたのだ。
子犬のために祈ってから、その場をあとにした。オートバイに跨り、空を仰ぐ。
最近になって、日中時間が著しく短くなった。冬だからというだけではない。年々夜が長くなっている。時間を計っているわけではないが、確かだった。
灯油や酒、洗剤といった日用品も仕入れ、家にもどった。家といっても、山の途中に建てた手づくりの木造小屋だ。周囲にはいたるところに罠を張りめぐらせてあり、記憶を頼りに避けて歩かなければならない。これだって完璧というわけではないが、気休め程度にはなる。
奴らは昼間行動することができない。それでも念のため尾行されていないか何度も確認して、家のなかに入った。
袋のなかから日用品やいくつかのレトルト食品を取り出し、キッチンに並べる。残った食糧は袋に入れたままかついで部屋の奥へ。
棚の隙間から手を入れ、ドアを操作する。隠し部屋のなかには階段があり、地下シェルターへとつづいている。もともとは戦時中につかわれていたらしい洞窟のようなもので、偶然見つけ、改造した。
棚を元にもどしてから、ドアをしっかりと閉める。ドアは厚く、ランプを点しても光が外に漏れることはない。
パイプベッドに寝そべり、聖書をひらく。説教を読みたいわけではない。神の存在など、こうなるずっと前から信じてはいないのだ。目的は本に挟んである写真だった。
古びて色あせた写真のなかで、ノアがはにかみながらこちらを見ている。ふたりで香港に旅行したとき、レストランでおれが撮った。
ノアの死を見届けてから、おれは森のなかをさまよい歩いた。この洞窟を見つけ、身を潜めた。明け方に這い出て、木の実や魚、兎などを漁って飢えを凌ぎ、昼と夜は洞窟にこもって、じっと待ちつづけた。
やがてヘリコプターや戦車の音が聞こえなくなり、外に出ると、世界のすべてが変わっていた。
“クランケ”とはドイツ語で“患者”を意味する。新型ウイルスFQ107Pの感染者を、政府や市民ははじめのうちそう呼んでいた。死体となったはずの患者たちが再び動き出したときには、もっとシンプルな呼び名に変わった。ゾンビ。しかし、その呼び名もしっくりとはこなかった。
彼らは生きた人間の血肉を喰らうわけではない。ただし、ふつうの人間ともいえなかった。言葉を話せず、制御も効かず、電波のような奇声を発し、夜の町を駆け回った。
政府の医療機関が彼らを解剖し、その正体を暴こうとしたが、なにひとつ有益な情報は得られなかった。皮膚がなくなり、筋肉とわずかな骨だけになった患者たちの殺処分はすぐさま開始されたが、その間にもウイルスの力は増し、空気感染までするようになった。ノアが死んで数週間もしない頃だった。
政府も軍隊もウイルスを止めることはできなかった。世界中の医師が束になっても、ワクチンはおろか、抗生剤すら生み出せずに、やがて地球上は“クランケ”の棲家となった。
ランプの薄明かりのなかで、おれは聖書の隅にペンで文字を記していった。
これらの情報はすべて山から降りたときにラジオや新聞で見聞きしたものだ。それらの知識に、自分の体験から得た情報をくわえていく。
まずひとつ。奴らは言葉を発しないが、電波のようなもので互いに意思疎通をしているらしい。以前、複数の“クランケ”に襲われたことがある。会話らしきものを交わし、連携して攻撃してきた。
そしてもうひとつ。奴らは食事をしなくても生きていける。また、人間よりもはるかに治癒能力が高く、少々撃たれたぐらいでは死なない。ただし、太陽に弱く、日中は外に出ることができず、地下に潜んでいる。
最新の情報を書きこむ。できれば認めたくない事実。奴らはおれを狙っている。
地下駐車場に迷いこんだ子犬が生きていられるはずはない。おれを暗闇のなかにおびき出すために準備された囮であると考えたほうがいいだろう。奴らは知能も人間並みかそれ以上に発達しているようだ。
おれは聖書を枕の下に押しこんで、灯りを消した。地下シェルターのなかは真っ暗闇になった。
くたくたのはずなのに、眠りはなかなか訪れなかった。この十五年、まともに眠れたことは一度もなかった。闇のなかで、おれはノアのことだけを考えていた。
町に出られるのは朝から昼の短い時間だけ。食糧や日用品を調達し、異常がないかどうか確かめる。最初の数年は、おれとおなじように生き残った人間を探した。今ではすっかり諦めてしまった。十五年間、だれとも出会っていないのだ。仲間を求めても虚しいだけだ。それでも、孤独はゆっくりとおれの神経を蝕みはじめていた。だれでもいい。そばにいて、話を聞いてくれる相手がほしかった。
オートバイを降り、歩きはじめる。昔何度も通った道。古びたアパートの階段を上った。