森に棲む男
その森にちかづいてはいけない。
親から子へ、子から孫へと、代々語り継がれてきた伝説。その森の奥には異形の生物が住んでいて、迷いこんだ旅人や子どもたちを残酷なやりかたで殺し、森に引きずりこむのだ。
噂には尾ひれがつき、徐々に残虐さを増していった。親たちは子どもを寝かしつけるために怪物の話をし、肝試しに森へ入りこんだ若者が消えたという話などもまことしやかに囁かれた。いつしか森にちかづく者はいなくなり、周辺はひっそりとして、ますます不気味な空気を孕み、来訪者を拒んでいった。
しかし、いっぽうで、森に棲む男の正体はだれにもわからなかった。生きてもどった者がいないせいで、だれも語ることができなかったのだ。
崖を上る途中、ノアが足を滑らせた。
「ノア!」
おれの手をつよく握り返し、体勢を立てなおす。おれはノアに肩を貸し、彼を支えるようにして崖を上りきった。ふたりとも傷だらけで、疲れ果てていた。それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
「急げ。もうすこしだ」
息を切らせながら必死に走る。霰のような弾丸が降りかかってきて、おれたちの足元で砂利が砕け散った。
「なんてことしやがる……おれたちは感染してないんだぞ!」
叫んだが、聞こえるはずもない。どこから撃っているのかわからないが、相手は軍人だ。狙いは正確で、視界のすぐ脇を弾丸が通りすぎた。
うめき声がして、振り返った。ノアが倒れていた。肩から出血し、くるしげに顔をしかめている。
「ノア!」
慌てて引き返し、ノアを抱え上げた。弾丸の雨のなか、なんとか車の陰に身を隠した。
ハイウェイには無数の車が乗り捨てられていた。事故を起こしてひしゃげたものやドアが開いたままのもの。キーが刺さったままのホンダを見つけ、乗りこんだ。負傷したノアを後部座席に押しこみ、イグニッションを回した。なかなかエンジンがかからず、おれは焦ってステアリングを叩いた。
「ローランド……」
後部座席でノアがくるしげに叫んだ。咄嗟に視線を上げた。
バックミラーごしに戦車の巨大な影が見えた。舌打ちし、アクセルを踏みこんだ。
路肩に停まった車にぶつかりながら、おれたちの乗ったホンダは土煙を上げて走り出した。
ようやく軍隊の手を逃れたときには、夕暮れになっていた。ひとけのない森のなかで、おれは車を停めた。
「だいじょうぶか、ノア」
返事はない。さっきまで聞こえていた喘ぎも、ほとんどなくなっていた。振り向いたが、暗くなりかけた車内でノアの表情は見えにくくなっていた。
「ノア」
慌てて車を降り、後部座席のドアを開けた。ノアは撃たれた肩を庇うように腕を抱いて座席に横たわっていた。
「傷を見せろ」
「触るな!」
手を伸ばそうとしたおれを、ノアが制した。これまでに聞いたことのないような切迫した声だった。おれの背中を冷たいものが駆け抜けた。
「おれから離れてくれ。ローランド」
「ノア……」
おれは青褪め、首を横に振りながら後ずさった。足が震え、立っているのがやっとだった。
ノアは苦痛の表情で上半身を起こし、立ちすくむおれの前で、ドアを閉めた。なかから鍵をかけられ、おれは我に返った。ドアに縋りつき、取っ手をがちゃがちゃいわせて開けようとした。涙で視界がぼやけた。意味不明の喚き声を上げているおれを、車のなかからノアが悲しげな眼差しで見つめていた。
おれは地面を転がるようにして木の棒を拾い上げた。窓に向かって振り上げる。
「やめろ!」
内側から窓に両手をついて、ノアが叫ぶ。おれは棒を振り上げた体勢のまま硬直した。肩で息をしながらいった。
「悲観するな、ノア。そんな怪我、なんでもない。すぐ助けてやる」
「ちがうんだ」
老人のようにしわがれたおれの声とは対照的に、ノアの口調は落ち着いていた。
「わかってるんだろ、ローランド」
静かにいって、ノアは窓に顔をちかづけた。夕陽に照らされた頬には膿がまとわりつき、不気味に波打っていた。
なぜだ……。おれの声は喉で粘つき、外に出ることはなかった。あんなに気をつけていたはずだ。いったいいつ? 電車に乗ったときか? それとも町で乱闘に巻きこまれたとき? どこで感染者と接触してしまったのか。しかも、ノアだけが、なぜ?
手から棒が滑り落ちた。おれは足を引き摺るようにして車にしがみつき、窓に額を圧しつけた。ガラスごしに両手が触れあうが、もちろん、なんのあたたかみも感じられない。
「だめだ、ノア。頼むから開けてくれ」
おれは子どものように泣き喚き、ガラス窓を叩いた。掌にはいくつもの擦り傷ができていて、血と涙でガラスが汚れた。
「ぼくを見てくれ、ローランド」
やさしい声でノアがいう。おれはしゃくりあげながら顔を上げた。鼻と口から漏れた息で窓が曇っている。
一枚のガラスを挟み、鼻先が触れあいそうな距離で、おれたちは見つめあった。ノアはゆっくりと掌を窓にあてがい、おれの顔を縦に撫でるように滑らせた。唇の位置で手を止め、そのままじっとおれを見つめつづけた。
地球上のどんなものよりも美しい青い瞳。その奥で小さな棒状のものが蠢いているのが見える。ウイルスがノアの体を侵しはじめている。直視するのがつらかった。身を引き裂かれそうな思いで、おれはノアの指の隙間から彼の瞳を見つめた。
「永遠に愛してる」
「おれもだ、ノア。おれも愛してる……」
ノアの眼球が突然反転した。おれの目の前で、ノアが大きくのけぞった。白眼を剥き、烈しく痙攣している。
「ノア!」
声が涸れるほど叫んだが、それを止めることはできなかった。ノアの皮膚が頭頂部からふたつに割れ、脳漿がまぶされた頭蓋骨が突出した。まともに見ていられたのはそこまでだった。おれは大声で叫びながら車に背を向けた。ノアの名を呼びながら走った。走りつづけた。
ナイフの刃が壁に横一文字の傷をつける。大きな壁は一面傷で埋め尽くされていた。数は五千と百二十五。つまり、あれから十五年ちかくたったわけだ。
ナイフの向きを変え、手にしていた缶詰の蓋を開ける。トウモロコシを噛み砕きながら、残りの食糧で何日もつか計算する。結果は楽観的になれるようなものではなかった。舌打ちとともに、空になった缶を放り投げた。
町は閑散としていた。錆びてなかば崩れかけたビルが建ち並び、放置された車には蜘蛛の巣が張っている。通りには人間はもちろん、猫一匹姿を見せることがなかった。
ニューヨークやロサンゼルスといった大都会とは比較にならないものの、かつてはそれなりに賑わい、せわしなく仕事に向かうビジネスマンや腕を組んで歩くカップルが行き来していた道。ノアとはじめて映画を観に行ったときも、この道を通った。田舎町で、いつか必ず出たいと口癖のようにいっていたが、心底嫌いだったわけではない。
十五年前、原因不明の伝染病が蔓延した。各地で閉鎖、隔離がおこなわれたが、そのときにはすでに遅かった。いまだかつて出現したことのない未知のウイルスはあっという間にアメリカ全土に拡がり、世界中がおなじ症状を持つ患者で溢れ返った。
病気はすぐに第二段階に達した。これが悪夢のはじまりだった。
親から子へ、子から孫へと、代々語り継がれてきた伝説。その森の奥には異形の生物が住んでいて、迷いこんだ旅人や子どもたちを残酷なやりかたで殺し、森に引きずりこむのだ。
噂には尾ひれがつき、徐々に残虐さを増していった。親たちは子どもを寝かしつけるために怪物の話をし、肝試しに森へ入りこんだ若者が消えたという話などもまことしやかに囁かれた。いつしか森にちかづく者はいなくなり、周辺はひっそりとして、ますます不気味な空気を孕み、来訪者を拒んでいった。
しかし、いっぽうで、森に棲む男の正体はだれにもわからなかった。生きてもどった者がいないせいで、だれも語ることができなかったのだ。
崖を上る途中、ノアが足を滑らせた。
「ノア!」
おれの手をつよく握り返し、体勢を立てなおす。おれはノアに肩を貸し、彼を支えるようにして崖を上りきった。ふたりとも傷だらけで、疲れ果てていた。それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
「急げ。もうすこしだ」
息を切らせながら必死に走る。霰のような弾丸が降りかかってきて、おれたちの足元で砂利が砕け散った。
「なんてことしやがる……おれたちは感染してないんだぞ!」
叫んだが、聞こえるはずもない。どこから撃っているのかわからないが、相手は軍人だ。狙いは正確で、視界のすぐ脇を弾丸が通りすぎた。
うめき声がして、振り返った。ノアが倒れていた。肩から出血し、くるしげに顔をしかめている。
「ノア!」
慌てて引き返し、ノアを抱え上げた。弾丸の雨のなか、なんとか車の陰に身を隠した。
ハイウェイには無数の車が乗り捨てられていた。事故を起こしてひしゃげたものやドアが開いたままのもの。キーが刺さったままのホンダを見つけ、乗りこんだ。負傷したノアを後部座席に押しこみ、イグニッションを回した。なかなかエンジンがかからず、おれは焦ってステアリングを叩いた。
「ローランド……」
後部座席でノアがくるしげに叫んだ。咄嗟に視線を上げた。
バックミラーごしに戦車の巨大な影が見えた。舌打ちし、アクセルを踏みこんだ。
路肩に停まった車にぶつかりながら、おれたちの乗ったホンダは土煙を上げて走り出した。
ようやく軍隊の手を逃れたときには、夕暮れになっていた。ひとけのない森のなかで、おれは車を停めた。
「だいじょうぶか、ノア」
返事はない。さっきまで聞こえていた喘ぎも、ほとんどなくなっていた。振り向いたが、暗くなりかけた車内でノアの表情は見えにくくなっていた。
「ノア」
慌てて車を降り、後部座席のドアを開けた。ノアは撃たれた肩を庇うように腕を抱いて座席に横たわっていた。
「傷を見せろ」
「触るな!」
手を伸ばそうとしたおれを、ノアが制した。これまでに聞いたことのないような切迫した声だった。おれの背中を冷たいものが駆け抜けた。
「おれから離れてくれ。ローランド」
「ノア……」
おれは青褪め、首を横に振りながら後ずさった。足が震え、立っているのがやっとだった。
ノアは苦痛の表情で上半身を起こし、立ちすくむおれの前で、ドアを閉めた。なかから鍵をかけられ、おれは我に返った。ドアに縋りつき、取っ手をがちゃがちゃいわせて開けようとした。涙で視界がぼやけた。意味不明の喚き声を上げているおれを、車のなかからノアが悲しげな眼差しで見つめていた。
おれは地面を転がるようにして木の棒を拾い上げた。窓に向かって振り上げる。
「やめろ!」
内側から窓に両手をついて、ノアが叫ぶ。おれは棒を振り上げた体勢のまま硬直した。肩で息をしながらいった。
「悲観するな、ノア。そんな怪我、なんでもない。すぐ助けてやる」
「ちがうんだ」
老人のようにしわがれたおれの声とは対照的に、ノアの口調は落ち着いていた。
「わかってるんだろ、ローランド」
静かにいって、ノアは窓に顔をちかづけた。夕陽に照らされた頬には膿がまとわりつき、不気味に波打っていた。
なぜだ……。おれの声は喉で粘つき、外に出ることはなかった。あんなに気をつけていたはずだ。いったいいつ? 電車に乗ったときか? それとも町で乱闘に巻きこまれたとき? どこで感染者と接触してしまったのか。しかも、ノアだけが、なぜ?
手から棒が滑り落ちた。おれは足を引き摺るようにして車にしがみつき、窓に額を圧しつけた。ガラスごしに両手が触れあうが、もちろん、なんのあたたかみも感じられない。
「だめだ、ノア。頼むから開けてくれ」
おれは子どものように泣き喚き、ガラス窓を叩いた。掌にはいくつもの擦り傷ができていて、血と涙でガラスが汚れた。
「ぼくを見てくれ、ローランド」
やさしい声でノアがいう。おれはしゃくりあげながら顔を上げた。鼻と口から漏れた息で窓が曇っている。
一枚のガラスを挟み、鼻先が触れあいそうな距離で、おれたちは見つめあった。ノアはゆっくりと掌を窓にあてがい、おれの顔を縦に撫でるように滑らせた。唇の位置で手を止め、そのままじっとおれを見つめつづけた。
地球上のどんなものよりも美しい青い瞳。その奥で小さな棒状のものが蠢いているのが見える。ウイルスがノアの体を侵しはじめている。直視するのがつらかった。身を引き裂かれそうな思いで、おれはノアの指の隙間から彼の瞳を見つめた。
「永遠に愛してる」
「おれもだ、ノア。おれも愛してる……」
ノアの眼球が突然反転した。おれの目の前で、ノアが大きくのけぞった。白眼を剥き、烈しく痙攣している。
「ノア!」
声が涸れるほど叫んだが、それを止めることはできなかった。ノアの皮膚が頭頂部からふたつに割れ、脳漿がまぶされた頭蓋骨が突出した。まともに見ていられたのはそこまでだった。おれは大声で叫びながら車に背を向けた。ノアの名を呼びながら走った。走りつづけた。
ナイフの刃が壁に横一文字の傷をつける。大きな壁は一面傷で埋め尽くされていた。数は五千と百二十五。つまり、あれから十五年ちかくたったわけだ。
ナイフの向きを変え、手にしていた缶詰の蓋を開ける。トウモロコシを噛み砕きながら、残りの食糧で何日もつか計算する。結果は楽観的になれるようなものではなかった。舌打ちとともに、空になった缶を放り投げた。
町は閑散としていた。錆びてなかば崩れかけたビルが建ち並び、放置された車には蜘蛛の巣が張っている。通りには人間はもちろん、猫一匹姿を見せることがなかった。
ニューヨークやロサンゼルスといった大都会とは比較にならないものの、かつてはそれなりに賑わい、せわしなく仕事に向かうビジネスマンや腕を組んで歩くカップルが行き来していた道。ノアとはじめて映画を観に行ったときも、この道を通った。田舎町で、いつか必ず出たいと口癖のようにいっていたが、心底嫌いだったわけではない。
十五年前、原因不明の伝染病が蔓延した。各地で閉鎖、隔離がおこなわれたが、そのときにはすでに遅かった。いまだかつて出現したことのない未知のウイルスはあっという間にアメリカ全土に拡がり、世界中がおなじ症状を持つ患者で溢れ返った。
病気はすぐに第二段階に達した。これが悪夢のはじまりだった。