即興小説掌編集
海の絵
いつも見る夢のこと。
夜の海は闇に溶けて、黒いビニールみたいな空が広がっている。たくさんの黒い手が、招いているようにうごめく波があって、そんな黒の中に一筋の光のような白い椅子がある。そこに腰掛けている老人の名前も知らないのに愛しいと認識していて、その隣に膝を抱えて座る。
波の音が耳の中を引っ掻き回す。何かが落下しつづけているような音。誰が何を落としているんだろう。
「探し物は見つかりましたか」
愛しい老人がそう訊ねる。
夢の中なのに肌寒いのがわかる。いつもと違う肌の感触。老人もわたしも半袖だった。
「いいえ」
決まっていつもそう答えるけれどわたしはその探し物がなにか知らない。
「そうですか」
老人はどこからか煙草を取り出し、深い息をついた。黒の中、うっすらと煙が見えた。
波を見ているとただ不安に煽られ続ける。ずっとここにいてもいいのか。わたしがここに存在していいのか怖くなる。あの海の下にはたくさんの生き物がいて、たくさんの死骸もあるのかもしれない。わたしの存在はそれ以上だろうか。
「でもそれはもしかするとなくしていないのかもしれないし、ずっとなかったのかもしれません」
わたしは無言で老人の横顔を見た。丸めた紙を広げたような適当な皺が頬を覆っていて、目の下は大きく膨らんでいる。唇が桃色をしているのはこの暗闇でもなぜか判断できて、目はビー玉が入っているようだ。顔を見ていて安心など一度もしたことがないが、ただ愛しいという感情が溢れ出てくる。その胸に顔を埋めたいだとか、耳たぶにくちづけたいだとか、そんなことを思う。
「いえ、わたしの探し物は必ずどこかにあります。なくしたんです」
決められたセリフを読むようにして、そう吐いた。
「そうですか、ならよかった」
連続で誰かがものを落とすような気がする。落ちているのはわたしの探し物?
「あなたが大事だと思うものは、たいしたことがないものかもしれないし、ほんとうのことなど誰にも決めようがありません。あなたがじぶんで見えるものを信じてください」
老人のそのことばはわたしのこころに光を与えた。このひとと出会わせてくれたことに涙が出そうになった。
「でも、あなたのものさしが必ずしも正しいとは限らないんですよ」
老人がそのことばを吐いた瞬間、ひとつひとつの小さな黒い手が大きな手となりわたしを飲みこむ。
愛しい老人は感情のない瞳で微笑む真似をしながらわたしを見ている。助けてくれもしないそのひとに最大の幸福を祈りながらわたしは波に殺される。これで海の一部になる。息の仕方を忘れたとき、そこでいつも夢は終わる。