即興小説掌編集
流れる街
きょうも彼の帰りは遅い。ほかに女のひとがいるんだろうなって、話さないけれどわかるようになってしまって、話さないのにわかってしまうようになったのが最初は少し悲しかった。
感情が麻痺していけば、なにも感じなくなるだろうし、そのほうがずっと楽でいいなと思う。
そのときまで、わたしは彼が好きでいられるかな。好きだと思うことさえいつか麻痺してどうして一緒にいるかわからなくなっちゃうのかな。
明け方、ドアが開く。寒い風が入り込んできた。完全に目をあけているけれど、彼が近づくと目を閉じる。ベッドが重みで沈む。深いため息が空気に流れて辿りついてきた。
「変わっちゃったね。お互い」
いつか、わたしか彼のどちらかが言った。忘れてしまっただけで共通意見だったのかもしれない。高校のころはよかったね。お互い同じ制服をきて、親からもらったお金と少しアルバイトをして毎日授業をこなすだけであとは楽しさだけが残っていて。一緒にいて「俺は有名になる」とか漠然とした夢を語って、話せば話すほどそれが簡単に叶うような気がしたから毎日飽きずに空想の中で生きた。
「奏ちゃんはいいな、わたしにはなにもないもの」
そう言ってたわたしはいま、ほかの世界から「ちゃんとしている」というレッテルを貼ってもらい、三十にもなってまだちっとも売れないバンドをやってるとばかにされる奏太とは違う。彼が外につくった女はわたしより経済的に優位な立場なのかもしれないけれどたぶん「ちゃんとしているひと」ではない気がした。好きな男のためにそこまでできないじぶんを臆病だなといつも思う。だけど、帰ってくれるからまだ、その一線を越えられない。内心越えたくもないなんて考える。もし、ほんとうに彼が「有名」になったらわたしは捨てられるのかな。家賃も食費も全額払っていてもそんなことよりももっと彼にとって役立つお金を渡さないとだめなのかな。――夢がないからいつもお金の話ばかりしてしまう。
上着を脱ぐような音が聞こえて、そのままシャワーも浴びずにベッドの中に入ってくる。なのにいつも少しだけいい匂いがする。その匂いはわたしを泣かせるのにいつも十分で、眠っているふりをしているのに涙が出てくる。まだわたしの感覚はちゃんと悲しみを判別できるみたいだ。
こんなのよくある話だってわかっていて、ほかのひとはどうやっているのか集まっていろんな人に訊いてみたい。
奏太の歌を越えるものなんてこの世に存在しない。それ以外のミュージシャンはそれなりにいいけど奏太には誰も敵わない。だったら彼の歌を世に輩出するためにわたしがもっと若いうちにいろいろしておくべきだったのかもしれない。でも、好きな男のために好きじゃない男とベタベタしたり、笑ってお世辞を言ったり、況して性行為をしてお金を貰うなんてどうしても無理だった。彼が頑張ってるんだからわたしも仕事を頑張らないとなんてそんな繋がらないモチベーションのあげ方で死にもの狂いで仕事ばかりしていた。その甲斐あっていくつかのプロジェクトを任されるようにもなった。偶に、ほんとうに偶に「世間に相手にされていないバンドマンの彼女」でいることを少し恥じる瞬間があった。ならば、もうわたしたちは終わりなのかもしれない。
最近彼のバンドは上がり調子になってきているけれど、彼自身はそんなに頑張らなくなったなと滑車を前に呆然としているハムスターを眺めるようにそう思うようになっていった。
「心中」ということばが頭の中に浮かぶけれど、彼が死ぬ相手はわたしではないだろう。だからといって一方的に殺す勇気もない。でも十二年も付き合っていて、別れるという選択肢なんてない。
どうしてわたしは、彼の一部になれないんだろう。
彼の手がわたしの腹に当たる。ゆっくりと上にあがり、胸を掴まれる。頭に顔をあてて、わたしたちの距離はなくなった。このままひとつになれればいいね。彼の頭のなかにわたしが入れば変な間違いなんて犯さないように操作できるのに。別々になんて生まれたくなかったよ。意思のない細胞のひとつでいいからその天才の一部になりかった。
「おかしいのは世間だよ」
いいきかせるように何度もそういった。世間って誰なんだろうね。ずっと疑問だった。いつまでも現実を見れないわたしたちのほうが悪いのかな。
彼の体はひどく冷たい。きょうは彼の体を温めるだけの存在でいいような気がした。憂鬱なあした以降のことは、ゆっくり話して行く。こうやって温められるならばらばらの存在でもいいなんて少しは思えるから。