即興小説掌編集
雨の日
バス停で雨が降っているのを見ている。次のバスまで、二十分。人通りは少ないだけでなく、タクシーも通らない。水滴の点が速度を持って落ちてくると線に見える。
「なんだか閉じ込められたみたいだね」
隣の存在が呟く。傘をさして歩けばどこにだって行ける。だから俺たちは閉じ込められていないのに。
「だから、雨は嫌いなんだ」
風でパーマの掛かったミルクティー色の髪が揺れて、白い頬を撫でる。
名前に「雨」が入っている。時雨。付き合い始めた頃、大学の講義中よくその字を電子辞書で引いた。「秋の末から冬の初めにかけて、ぱらぱらと通り雨のように降る雨。「時雨煮」の略。涙ぐむこと。涙を落とすこと」いまではその三つを何も見ずに言えるようになってしまった。
時雨はよく泣く。俺は時雨と違って、感情の波が緩やかにしか動かない。笑おうと思ってもうまく笑えず、泣こうと思ってもうまく泣けない。楽しいのか、嬉しいのかよくわからないつまらない男だとむかしの恋人に言われてきたし、それを自覚していた。でも、時雨はじぶんと似た人間よりも、似ていないひとのほうが好きだというから、これでいいんだと思えるようになってきた。
横から入り込んできた水滴が、ベンチ濡らしていたが、手で拭って一緒に座った。
「隈酷いね。眠れないの?」
時雨がいまはじめて気がついたような顔をして、俺の目の下を指差す。
「寝れてる、はず。年なんだよ」
自嘲的に笑うと、時雨が「えー」と言う。出会ってもう六年が経った。長いようで、短かった。いろいろなことがあったし、これからも、いろんなことがあるような気がする。
「岬が年なら、ぼくも年じゃん」
「それは」
俺はどんどん萎れていくのに時雨はずっときれいだ。ただでさえ、神様に贔屓されたような造形の顔をしているのに、年の取り方まで遅いのかもしれない。
雨音は強くなる。呼吸すると、排気や大気中のごみとかも交じって肺に入ってくる気がする。時雨は大きな目で俺を見ている。新種の果実のような艶やかな唇。俺は来年も、時雨のことをきれいだなと、思っているんだろうか。
「死なないでね」
「なに、急に」
「死ぬときは、一緒ね」
無邪気に笑った。
それを望むなら、死に方はじぶんたちで選ぶしかない。死ぬときは一緒だと言われるたび、俺はきっと無理だろうと思いつつ、言わなかった。体内に組み込まれている砂時計の減る速度が俺の方がずっと早い気がする。死については話し合わないのでいつも一方的に押し付けられる。というか、いつもいろんなことを時雨が押しつけ、俺がひとつひとつ処理していった。俺は、仕事以外のことでじぶんでものごとを決めることは苦手だった。だから偶然、こういう風になんでもじぶんの思い通りにしたいひとを与えられ、導いてもらえるようになったんだろう。俺が、じぶんの思い通りにしたいと思ったのは、周りの反対を押し切り、このひとといる未来を選んだ、それだけだ。
生暖かい雨の空気の中、目が虚ろになり始めた頃、バスがきた。バス停と乗り口の隙間で少し濡れてしまった。
バスの中は無人で、一番後ろの席に時雨が歩いていった。俺はその後ろをついて、隣に座る。
「よかった」
誰もいなかったことに安心しているのは俺も同じだった。いつもは間近に座らないから、きょうは体を密着させた。次のバスで誰かが乗って俺は時雨の体から離れるつもりだ。
俺は、全部が全部、じぶんの思い通りにならなくていいって思っているし、こういう風に偶に、何かに遠慮するような気持ちが常にあって、いいって思っている。それがあるから、こういうときに特別な気持ちになれる。
時雨が顔をあげて、目が合う。雨で濡れた髪が若干重なった。窓にはまだ、雨粒が打ち付けていた。時雨の唇がいつも通り、冷たくて、唇を離すと、「あったかいね」って時雨が笑った。そのとき、なんだか久しぶりに泣きたくなったのだ。