即興小説掌編集
まばゆいひかり
布団の中に宝物を残してマンションを出た。
外には誰もいない。コンクリートは青白くて、数時間ぶりに顔を出した太陽は淡い光を放つ。
スマートフォンを開くと午前五時と表示されている。寒気が膜になって体を覆う。息を吸って、吐く。肺の中から吐き出された空気は白に変わらない。その代わりにポケットから煙草を取り出して口にくわえた。唇にあたる感覚が妙に懐かしく感じる。
こんなことをしたら、さっき沁みつけようとした温度を忘れてしまうんだけれど。
煙草を吸う女が嫌いだと言った。髪は茶色より黒、ショートカットよりロングヘアー。そんなことに拘りを持つ男がいるんだろうと前時代的思想に笑った。それでもひとつでも多く嫌われる要素を少なくしたかったのは自分の弱さ。
むかしからこんな風に自分というものがなかった。
彼が、図書室の一番上の本棚から本を取る姿が好きだった。本を読みそうにもないのに妙に難しい本を読んでいること、身長が一八〇センチある人でも背伸びをする姿は変に胸を締め付けるものがあった。自分とは生きている空気感と時間軸が違う気がしたから一生関わり合いを持つことがないと思っていた。だからいつも遠くから見ているだけだった。
読んでいる本よりも、背伸びをすることよりもほんとうのことをいうと彼の名前が気になっていた。
サワタリミトモ。
自分の友だちみたいなひとが彼と付き合いはじめたとき、「沢渡くん」ではなく「深大」と呼んでいることが羨ましかった。名を呼べば、彼が振り向いて笑う。一連の動作、流れを見ていてすべてが美しいと感じた。それを見ていれば別に自分のものにならなくていいと思っていた。
自分のものになったら、なくすのが恐くなるのを体感ではなく、感覚で知っていた。
「アヤナツだよね」
からかうように彼がわたしの名を呼んだのは高校を卒業してから七年経ってからのことだった。
わたしが勤めている会社が毎度出店している展示会に買い手として来たのだった。
「え?」
「ごめんごめん。アイツがいつもそう呼んでたから」
アイツ、と口にしたからまだ続いていたんだろうとはかってしまった。
わたしは首からぶら下げた出展承認証の裏に隠していた名刺を取り出した。
「わたしは佐久間彩夏です」
素っ気ない長方形の紙を手にするとミトモはあの頃と同じ顔で笑った。
「そうか、アヤカっていうのか」
このとき出会わなければ、ミトモが笑わなければ、いままでなかった自分のものになればいいのにという感情を抱かなくて済んだのかもしれない。
それから一般的なアプローチをし、手順を踏んで、わたしはミトモを手にすることができた。わたしの友だちみたいなひととはとうの昔に疎遠になっていたらしい。
自分の恋心は人間性や人格、容姿ではなく彼の名前からはじまっているのは秘密にしていた。だけれどミトモは絵に描いたような非の打ちどころのない男だった。
真面目に働き、人付き合いもよく、いつも笑っていた。
仮に、気になる名前でも実体が目も当てられないようなひどい人間だったら、ただの名前負けかと言って苦笑してそれで終わったはずだった。
だけど会うたび、関係がすこしずつ進んでいくたびにその名前に惹かれたことを後悔するほかなかった。ミトモが仕事の話をするたび、友だちの話をするたび、なにか、好きなものの話をして笑っているとき自分の腹の中から沸き出る黒い感情が生まれていた。好きだと感じるたび、それと比例して自分の醜さを知る。
ミトモは名前の響き以上に恐ろしい引力でわたしを引っ張って離さなかった。
ひとを好きにならなかったら、ではない。ミトモを好きにならなかったら、こんな風に感じなくて済んだ。
あまりにも大事すぎる、自分に不相応な、好きすぎて何も見たくなるような相手を好きになったからこんな風になった。
さざ波のような恋心がいまや、ただの扱いづらい大波でしかなかった。
ミトモはもう、背伸びするほど高いところに手を伸ばしたりしないのに。
ミトモと付き合い始めて一年が経った。結婚は二番目に好きなひととしたほうがいいという意味が、ここ最近わかってきた。
あまりにも大事すぎるものは両目で見ているとその光で目つぶしに合う。会うたびに寿命が縮まる。
それまで、そこそこ好きなひととしか付き合ってこなかったのにこうやっていま、ミトモという一番好きなひとと付き合ってたくさんのことを思い知るのだ。
この諸々の痛みを含めてまっさらな幸せだと思う日が来るんだろうか。
愛情を確かめ合うような行為をして、そのあと煙草を吸うのは、ほんとうは一番好きなひととこんなことをしたくないからだ。尋常じゃないほど、煙草なんかでおさまらないほどストレスが溜まる。
欲する自分は醜いから嫌いだ。手を伸ばし、足を絡め、どうにかして自分のなかにミトモを閉じ込めようとする行為は美しくない。そう感じていつも自分に失望する。
ミトモは普通だから、こんな風に思ったりしないんだろうか。
「アヤナツ」
終わった後、確かめるようにミトモがそう呼んだ。高校のときにアヤカがふたりいたからわたしはアヤナツ呼ばわりされるようになっただけなのにミトモはアヤナツという響きが好きだと言っていた。
「いつも、何考えてんの」
「なにも考えてないよ」
からっぽだったわたしは、いま、あなたのことしか考えていない。
「嘘だ。いつも、何考えてんのかわかんないカオしてる」
そうして、ミトモが両頬をあげ、いかにも楽しそうに笑った。
「アヤナツの頭の中に入って探ってみたいよ、俺」
なんだかそれをみてやっぱり釣り合わないとか空気が違うとかそれでも大切で誰にも渡したくないなあって強くもう。あまりにもわたしの脳に自分のことしか書かれていないのを見たら引く、のかなあ。ミトモ。
「なんもないよ」
わたしは嘘つきの顔で笑う。
できるだけ自分のことを話さないようにして、自分を殺し続けているのは理想に合わせて嫌われないようにしているだけだ。なにも考えず、感じていないふりをしているのは見透かされたくないからだ。
ほんとうにただの強欲だったらよかった。
マンションから少し離れた公園のベンチに腰をおろした。太陽が空気をあたためはじめて、ようやく先ほどの皮膚温度を思い出した。ミトモは生ぬるくて水っぽかった。――好きだった。
一緒にいるときに激しい感情の針が降り注いでいるときよりも、ひとりでじっくりと愛しいものについて考える時間が好きだ。
もう少しだけここにいて、たくさんたくさん考えたい。
宝物はまだ、ベッドの中、布団にくるまっているんだろうか。
七時になったら取り出しに行こう。