即興小説掌編集
かたい唇
耳に心地のよい音を立てながら、麺が次々に寿人の唇に触れていく。そして口の中におさまり、飲み込まれたら彼の一部になる。思わず、食べるのをやめてその姿に見入っているとなに見てるんだ。早く食えよと口角を低くあげて笑われた。
近所においしいラーメン屋ができたと言っていたのに彼はつけ麺を注文した。わたしはわざわざ汁に麺をつけるのが面倒でつけ麺が嫌いだから普通のラーメンを食べている。
寿人の唇は薄くもなく、厚くもない。感触は少しかためで、いつも表面が乾燥していた。ときおり剥がれ落ちる皮はポテトチップスのカスに似ていた。だから拾って食べる。
吸い込まれていく麺が、羨ましかった。
店を出て歩いていると「プラタナス」という表札をつけた木があった。
むかしこんなアニメなかったっけと言うと寿人は知らないと小さく言った。なんでいつもこう、会話に困るとどうでもいいようなことを言ってしまうんだろう。唇とぴったりと閉じている横顔を見る。出会った頃の寿人は歯列矯正をしていたので、きれいな歯列となったいまも、少しだけ口先が尖っている。たぶん、沈黙がきらいというよりも、話している声が好きなのかもしれないなあ、なんて思っていた。
家に帰ってもお互いしばらく会話がなかった。ワンルームのわたしの部屋はものがほとんどなく、ベッドとテレビくらいしか家具がない。
寿人が窓を開けて雨戸を閉めた。
鏡を、買ったらいいんじゃないかなと誰にいうわけでもなく寿人は言った。
「鏡なら、洗面所にあるし」
「こう、大きなさ、鏡台が、あったらいいと思うんだよ」
手を大きく広げるジェスチャーを交えながら彼は説明し、最後は恥ずかしそうに笑う。
「別にそんなもの」
寿人はわたしの手を引き、抱き寄せくちづけをした。彼の唇は相変わらず少しかためで、肉感と温度を感じる。人のものだと感じる。行き場を失くした息がふたりの間を彷徨い少しずつ抜けていく。もっと密着して眩暈を覚えるくらい息苦しくなりたいと思ったときにだいたい唇が離れる。
「いつも、視線を感じる。お前目をつむってないんだろう?」
「まあ」
「目を開けてるならこういうことをしたとき、鏡があったら確認できるだろう」
全然名案に感じないが彼は得意げな顔をして言う。
「いらないよ、別に確認する必要なんてない」
わたしはただ、彼のくちづけで窒息死したいだけだから。