言の寺 其の弐
「詩は紙の上に無くても良いのだ」と僕に思わせた3年ほど前の出来事
「詩は紙の上に無くても良いのだ」と僕に思わせた3年ほど前の出来事
夏とか梅雨の頃僕は、たまの休日だった。コンビニ帰りのテンションは意外にハイ(ビニールの中にティラミスあり)で、うろこ雲に頭の天辺をこすりつけるようにして、川べりを歩いていた。
「橋というのも烏滸がましい」なんて僕ごねたって橋は橋、たった5mほどしかなくてもそれは橋という名称なのだろう。生意気に歩道をセパレートしていて、白いガードレールで着飾っている。
老夫婦がいたのですねそこに。おばあさんの方がキャリーに白いビニール袋のブクブクに太った奴をネギとかはみ出させて手に握って、ガードレールの欄干とはいえし、にもう一方の手を添えている。おじいさんは、身体の具合が悪そうなオーラを羅王のように纏わせて、おばあさんの横に小さな建造物のように建っている。
僕はその後ろを通りすがる。そうして橋を渡ってほんのちょっとで辿り着いたアパートの階段。登りながら、チラリと耳に聞こえたおばあさんの呟き声が、脳内に反芻されたのです。それはこうです。
「今日は、アメンボしかおらんねぇ」
僕は階段を登りながら視界がグラグラと、涙になりかけた液体で補正されたレイヤー。
きっと――毎日この橋にああして二人。川を眺めて流れてくる生き物や鳥を見ているのだろう。どれくらいの時間?結構小一時間とか?
おばあさんの一言は、僕には「詩」そのものだった。紙の上にはなくっても、それはきっと詩なのでしょう。
誰の日常にも、同じくしてそれは、あるのでしょう。コレ読んだ人にもきっと。