言の寺 其の弐
建っている家
早朝目が覚めてしまうのだ最近は。何かそういう症状に相応しい症候群の名前があるのかどうか知らないが兎も角、僕は毎朝、陽が成型される以前の路上にのっそりと這い出してジャージにジャンパーで、コンビニに、暖かいお茶を買いに行く。
別に家で茶を淹れればいいのだけれども、何か目的がないと、この朝歩きがただの「徘徊」であるかのような気がして……まぁ実際のところそうなのだが。
家が建っている。「ている」というのは現在進行形として使った。つまり建築中の家がある。その前を僕は通り過ぎる。ヘタをすると、まだ深夜でないかという程に濃闇の中を、街灯と件のコンビニの漏れだす照明目掛けて、誘蛾灯のカナブンのように、近寄っていく。その往路上に、成りかけの家がある。
毎朝、作業の進捗を確認している。「昨日は基礎工事だったか」と架空の作業表を確認してみたり、「あれ?あまり進行していないのではないか?間に合うのか?」などと、頼まれてもいない心配をしてみたり、している。
不思議な感覚がある。僕はこの早朝にしか、この辺りを歩くことはしない。だから、この家を立てている人物に遭ったことがないし、トンカントンカンという音も聞かねば、グイーンドドドドドという音にも、お目に掛かったことがない。そうであるのに僕はといえば、毎朝大した用もないブラ歩き中に、日課として義務として、この家が完成していく工程を、確認しているのである。
「何か、目に見えない小人のような存在が、この家を建てているのではないか?」
幾ら起き抜けとはいえ、朦朧にすぎるか。ともかく『物』だけが変化をしていくのが見えて、そのプロセスが見えない不思議だ。そこはやはり、想像で埋め合わせるしかなかろう。絶対にこの家を建てているのは、大工の集団であると、決めつける世界ではない。とくにこの早朝の感覚は、僕にとって独占的ともいえる世界であり、想像も妄想も、陽が照っていない分もあって、自由に濃紺の中を彷徨えるのだ。
そうするとこの家が、不気味にも見える。目に見えない存在を存在させる為に、建築されている建物なのかも知れない。少なくとも僕にとっては。
ありきたりで申し訳ないが、何か文学の糸口のようなものが見えた気がして、お茶を両手で包んでアパートに帰った。