ジゴロウ
「天気もわかる?」
彼女は微笑んだ。「ある程度はわかる。風の匂い、吹く方角、雲の動き、鳥の声」
「ここで起こってることは全部見てるんだね」
「まあね」
「JKの表情、指に挟むシガー、必ず身につけるシルク、嫌味なくらいに光った靴、とっかえひっかえの女達、女の体に触れるJKの腕、ジョークに笑うにやけた顔」僕は彼女の表情を窺った。
彼女は深く頷いて僕を見た。
「そう。全部見てるわ」
「きみはさ、あいつがいろんな女とべたべたしてるの見てて、何も思わないの」
「何もって?」
「嫌だなとか、私のものなのに、とかさ」
「あなたは思うわけ、小夜子に」
「そりゃあね。当然の感情だ」
彼女は呆れた、というように右手を振った。それだけじゃなく、思わず込み上げてきたという風な笑いも浮かべた。
「あなたって相当女々しいのね。そうか、だからふられ方が下手なのよ。どこかでしつこいんだわ。格好悪いのよ。オレのものだオレの側にいろオレを認めろって、?オレ?が前に出過ぎなんじゃない??オレ王国?に無理に引き入れようとしたって、相手は余計逃げ出したくなるだけよ。だいたいああいうタイプはどんどん遊ばせなきゃ」
「遊ばせたら帰ってこなくなるよ」
今度は彼女は遠慮なく吹き出した。そしてひとしきり笑った。だが僕が笑わずに黙っているのに気がつくと、なんとか笑いを収めた。
「そうね。帰ってこないかもね」まだ口の端に笑いの歪みを残しながら「でもそれで無理矢理引きとめたって、いつかは帰ってこなくなるんじゃないのかしら?」彼女は言った。
「JKも同じ?」
彼女は曖昧な頷き方をした。
「でもきみはさ、つまりその、ステディなんだろう。帰ってこなくなったら困るじゃないか」
「あら。そうなったらそうなったよ。困る困らないとかの問題じゃないわ。必要ないと思われたら、もうどうしようもないじゃない」
僕は口を尖らせた。「JKのこと、そんなには好きじゃないみたいだ」
彼女は可笑しくてたまらないという顔をした。「ねえ。あなたまさか、この世の男女が全員過不足なくくっつけると思ってる?悪いけれどそれは不自然なことよ。本気で相思相愛の恋に落ちるのなんて、非常に難しいことだわ。難しいっていうより偶然、偶然っていうよりバイオリズムの瞬間的一致、っていうか思い込み、どっちかっていうと気の迷い、はっきりいうと勘違い……」
僕は眉根を寄せた。彼女は咳払いをした。
「いえ、別に私は愛が虚像だと言ってるわけじゃないのよ。でもそういういたずら的状況やまやかし的思い込みやなんやかんやが混じって渦巻いている日常で、時にほとんど発作的に愛は生じるのよ。そこには形式ばった筋道も一切の理屈もないの。いつやってくるのかさえもわからないの。だからその偶然の瞬間がくるのを待ってる。こないかもしれない。でも待ってる。好きだから待ってるの。ただひたすら待ってるのよ」
「それで?」
「それで?って。つまりその瞬間がきて愛を得たらってこと?」
僕は頷いた。
「あとは流れにまかせるの」
「帰ってこなくても?」
「そうね」
「だって愛を続けたいだろ?」
「できるだけね」
「二度と帰ってこないかも」
「そしたら待つだけ。また第二の瞬間がくるまで」
僕には、彼女が寛大なのか執着があまりに強過ぎるのかわからなかった。そんな「忍の一字」みたいな話、いくらなんでもちょっと古くさくないだろうか?しかしよく考えてみると、自分がどれだけ彼女と違うのか、或は古くさくないのかなんて、計りようがないのだ。
「とにかく、愛するJKがそんなに素敵なら、そのJKに他の雑多な女がいろんな理由でくっつき恋するのは仕方ないことなの。そうでしょ。そう思わない?」
通り掛かった犬が寄ってきて、世間話でもしたそうな顔で僕を眺め、膝のあたりの匂いをかいだ。しかしあとからやってきた上品そうなマダムが手を叩いて名前を呼ぶと、犬はすぐにマダムのもとにふっとんでいった。
「わからなくはないよ。好むと好まざるとに関わらず、モテル奴のところに人は寄ってくるし、いつでもモテル側に選択権があるんだ。でも僕にはそんな大きな気持ちで小夜子を見ていられない。そんな奴に小夜子を渡したくない。小夜子の腕はいつも僕がとっていたいし、どこでも困らないように僕がエスコートしてあげたい。くるくる変わる表情のひとつひとつだって見逃したくない。僕のところに帰ってこなくなったらなんて、考えたくもない。だってそれは絶望を意味するんだ」
僕は振り向きもせずに去っていく犬を眺めながら大きく息を吐いた。まるで心に巣食っている心配事を全て吐き出した気分だった。もちろん吐き出しても気持ちは晴れなかった。晴れるどころか一層暗くなるばかりだった。
「でもひょっとしたらあなたや私の方が、その、悩ましいるつぼから抜け出すのかもしれないわよ。こっちが先に嫌になることだって、ないとは言えないじゃない」
「僕には無理だ」
「私も無理だわ」彼女はあっさり認めた。
僕は彼女を見た。
「でも私はあなたとは違う。愛を押しつけたりしないし与えられるものは与えるわ。決して?オレ王国?にはならない。彼には彼らしく彼の好む環境にいて欲しい。それが彼を形作っているんだと思うもの、私の愛する彼を」
黙っている僕に、彼女は生ハムサンドの入った箱をあごで指して言った。
「これ、あなたにあげる」
「え。あげるって。だってそれは」
突然のぞんざいな言い方に僕は驚いた。だって彼女がさっきまで宝物のように大事に抱えていたサンドイッチである。それはJKと彼女とのひとつの繋がり。古くさい言い方をするなら愛の証であるはずだ。それを急に、見るのも嫌になったと言わんばかりに顔を背けるなんて。
彼女は戸惑う僕に構わず自ら箱を開けにかかった。手荒にリボンを取りラッピングを破いてサンドイッチをひとつ取り上げると、ほら、というように僕に向かって押しやるのだった。僕は急いで手をバラバラと振った。
「いらないよ。だってもらえないだろ」
「なにも食べてないじゃない」彼女は叱りつけるように言った。
「だからってこれを食べるわけにはいかない」僕はきっぱりと断った。
「お腹、すいてないの?」
「そういう問題じゃない」
「きらい?」
「だからそういう問題じゃないよ」
「食べたくないって言うのね」
「だから……」
言いかけたときだ。彼女が、箱に残っていたもうひとつのサンドイッチを鷲掴みにした。透明の包みを乱暴に開けると同時に真っ赤な口をかっと開け、ばくりとかぶりついたのだ。JKの為に作った生ハムサンドを、である。なにかの間違いかと思ったが間違いではなかった。あっと思う間もなく、サンドイッチの半分以上が口の中に入っていた。そんなに一気に入れたら息ができないんじゃないかというくらいの詰め込みようだった。しかし彼女はかぶりついたサンドイッチを離そうとはしなかった。ガリガリと激しい音がするのに連動しておかっぱ頭が振り乱れ、眼鏡がずれていき、指の隙間からマヨネーズソースやら生ハムやらレタスやらマスタードやらが飛び散って、あとからあとからテーブルの上に滴り落ちた。