ジゴロウ
僕は最初は呆気にとられてその食べっぷりを眺めていた。目を離そうにも離せないくらいの凄まじい勢いなのだった。とにかくがむしゃらに、咀嚼する時間も惜しいというくらいに、彼女はサンドイッチを齧り続けた。齧りついては押し込み、齧りついては押し込み……。正直いって、おぞましい光景と言ってもいいくらいだった。
ところがそういう彼女を見ているうちに、だんだん僕の気持ちは変わっていった。胸に小さな痛みが生じ、それが少しずつ大きくなり、じわりとにじみ、胸いっぱいに広がっていく。そこには彼女の言い様のない複雑な気持ちが吐露されていたのである。僕はそれを十分過ぎるほどに感じることができた。野蛮な行為の中に切なさだけが哀しくにじんでいる。報われない気持ち。思い込まなきゃ保てないモチベーション。僕は彼女の心情を受けとめないわけにはいかなかった。しまいには彼女の気持ちが僕に乗り移ったような気さえした。指先に力が籠っていくのがわかる。咽の奥を熱い涙が流れていくようだ。僕はもう居ても立ってもいられなくなった。じっと黙ってなんていられなかった。そうしてついに、目の前のサンドイッチにかぶりついたーー。
あとは夢中になって食べた。なりふり構わず、口の周りがべたついても手やテーブルが汚れてもあごが痛くなっても、気にしないでがつがつ食べた。ピクルスはひと口で飲み込んだ。食べながら彼女を見ると、彼女も必死で食べていた、まるでサンドイッチと格闘しているみたいに。まるでその痕跡を残してはいけないと自らに強いるように。二人分の齧りつく野生的な音だけが、辺りに響いていた。
やがて箱は空になり、僕らはナプキンで口を拭き、何事もなかったように顔を合わせた。幸い、周りには誰もいなかった。
そのとき。
シガーバーの灯りがはたりと消えた。
サンドイッチを食べ終えた直後、まるで計ったようなタイミングだった。
彼女はそれを確かめると、ゆっくりと立ち上がった。
彼女が去ってからも僕は黙って座っていた。ただ放心していたのである、置き去りにされたピザと共に。バジルの葉は小さく縮んでとっくに干涸びていた。
彼女の姿が見えなくなったころ、店員がそろそろ店を閉めたいのだが、と明細を持ってきた。僕は頷いて金を払った。僕が注文したピザではなかったけれど、エスプレッソを飲んだわけだし、彼女が特に金を置いていった様子もなかったので、僕が支払った。でもそれはごく自然なことのように思えた。
彼はこのピザはどうなさいますか、と僕にきいた。立派に役割は果たしたのだと僕は答えた。彼は頷くと彼女の去った通りをちらと見た。僕も通りを見た。
「でも、今日はどうかな」遠慮がちに彼が呟いた。
「それはどういう意味ですか」と僕はきいた。
すると彼は静かに、というように人さし指を口許に立てた。そして指を開くと風に耳を傾けるような仕種をした。車が一台通り過ぎた他には人影はなく、なんの音もしなかった。もう真夜中なのだ。
「彼女の部屋はこの先のアパートの三階にあるんです。私が店を閉めてから帰る通り道にあるからよく知ってるんです。真っ暗に寝静まった町で、いつも彼女の部屋だけ小さな灯りがついています。彼女の姿も見えます。窓を開け放して、髪をひっつめに結んで、白いパジャマを着て、そしてしくしく泣いているんです。時にはしみるような声で歌を歌っていることもあります。でもたいていは泣いています。それが風に乗ってここまで聞こえてくるときもあるんです。特に一度も彼があのシガーバーに姿を現さなかったときや、今日のように女の子達と出ていっちゃったときはひどいみたいです。おんおんて、熊がないてるみたいな声が聞こえることもあるんです。でもね、それでも彼女は毎日やってきます。夕方になるとやってきて、ピザとエスプレッソを注文するんです。ピザはいつもまるのまま残っています。でもそれについて口に合うかどうかをきいたことはありません。持ち帰るかどうかもきいたことがありません。私もわかっているんです、それでもこのピザが彼女の側できちんと役割を果たしているってこと。あなたの言った通りなのです。でも残念ながらその役割はとても小さなものです。彼女にとって確かに必要でも、慰めるまでには至りません。だから彼女は帰って泣くのだと思うんです。今日のしめくくりとして、涙を流すんです。そうすることで、恐らく今日の自分との折り合いをつけているのだと思うのです」
風が吹き、空っぽの鳥籠を抱えた年輩の男が僕らの前を通っていった。鳥籠はとても大きく、風が吹くと扉をがたがたと震わせた。男はその度に籠を抱え直し、しっかりとした足取りで通り過ぎていった。
「いろんなことがわかるんですね」
少したってから僕は言った。店員は鳥籠を抱えた男の後ろ姿から目を離すと、頷いた。
「彼女とは、ほんのひとことふたことしか話したことがありません。でも毎日エスプレッソを出していると、なんとなくわかるんです。注文するときの顔つきやありがとうって言ったときの間の取り方や椅子の座り方で、実にいろんなことが見えてくるんです。長く来て頂いてますから、やっぱりなんとなくわかっちゃうものなんです」
彼は自分の言葉に頷くと、もう一度風の中に耳をすませた。
「でも今日は何も聞こえないみたいだ。きっとあなたと長く話したせいでしょう。それが慰めになったんです。今頃は灯りを消してぐっすりと眠っているのかもしれません。これで私も安心して帰れます」彼は小さく微笑んだ。
星は静かにまたたき、夜の風が僕の頬をなでていく。僕は伸びをして席を立った。無性に古い時代のエスプレッソが飲みたかった。
《おわり》
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