ジゴロウ
僕には、小夜子を引き留めるソウルが足りない。深くソファに座るような落ち着きもない。この痩せっぽちの体。吸い込まれそうと笑われる大きな目玉。少女漫画みたいに無駄に長い睫毛。そうさ。僕はコンプレックスだらけだ。
花のような二人の女を両手に抱えて、奴は身振りを混ぜて話をしていた。どんな話なのか通りを挟んだ僕には知る由もないが、パッツィーも小夜子も、『そんな面白い話、今まで聞いたこともないわ』というような顔で聞き入っていた。すでにあの店の誰も、通りを歩く人も犬も車も石ころも、誰ひとりとして僕に注意を払うものはいないのだった。
☆★
どのくらいの時間、ここにいたのだろう。
どのくらいの時間、俯いていたのだろう。
見上げると、振りかかるような星空の下に僕はいた。
静かな夜の町。
通り過ぎる車の音は僕の心臓のようだ。ときどき暴走して高鳴り、やがて力尽きたように黙りこくる。
通りを挟んだシガーバーにはもう誰もいない。随分前に、小夜子を含んだ連中はどこかに行ってしまったのだった。今はきらりと光る照明によって、カウンターが断片的に照らされているだけだ。
さすがに、帰りどきだと思った。しゃがみ込んでいた体を持ち上げて、よろりと立ち上がる。すると首がきりきりと痛んだ。ずうっと俯いていたせいだ。
ばかみたいな話だが、あれから僕はずっと待っていた。小夜子が今にも通りの向こうから戻ってきそうで、いや戻ってくれば良いのにと期待して。そしてできれば「おめでとう。忘れるはずがないわ」とハッピーバースデーのキスをしてくれたら、きっと最高のクライマックスになるのに。
しかしいつまで待っても小夜子の姿は現れそうになかった。
とても綺麗な星の夜。
僕は夜空をあおいで大きな欠伸をした。それからもう一度通りを見渡した。なにも聞こえない。ハイヒールの音も、しなやかな声も。
せっかく伸ばした体を折り畳み、手をポケットに突っ込んで、僕は家路についたのだった。
ところが。
「格好悪いなぁ」
歩き出して十秒も経たないうちのことだ。
「やっとお帰り?坊やは宿題して歯磨いておやすみってわけ」
道ばたに放り出すようにして声が聞こえてくる。誰かが僕に話し掛けているらしい。
そこは通り沿いの小さなピッツェリアだった。表に出されたテーブルに、体の小さな女の子が一人座っている。あごまでのボブへア。化粧気のない顔。そして眼鏡。見覚えのない顔だった。
僕は声を無視してその女の子の前をいったんは通り過ぎた。だが、次の言葉で彼女のテーブルへ引き返すことになる。
「デートにふられたくらいで、どんだけ落ち込むのよ、みっともない」
「悪いけど」僕はポケットに手を突っ込んだまま彼女の目の前十五センチくらいのところに顔をつけた。「きみには関係のない話だ」
言い終わるとさっさと踵を返す。虚しい日には虚しいことが重なるものだ。こんな日は早く寝て一日を強制的に終わらせるのに限る。早く帰ることにしよう、早く早く:::。
「あとが良くないね、ふられたあとが」
しかし声は続くのだ。僕はやっぱり引き返していた。
「残念ながら、今の僕には有り難い御託を受け入れられる余裕なんて、これっぽっちもないんだよ、例え相手がマザーテレサだとしてもね」
「私がマザーテレサですって」彼女は大げさな声を上げて、にやにやと笑った。そして神妙な顔を作ると、でもマザーテレサより峰不二子の方がいいわ。男共を思う存分に操れるもの、と付け足した。
それを聞いて、彼女のあつかましさに僕はカチンときた。マザーテレサのことは極端な例として取り上げただけで、彼女のことを例えたわけではない。それを自分のことだと思い込むなんて。相場より自分がイケテルと思っているその勘違いに、僕の苛々は募っていった。
確かに僕は、苛々が生じているのを自覚していた。しかしそれは最初は自分に向けたものだった。それがいつの間にか彼女に向かって方向を変えた。まるでからからに乾いた空気の中にいるみたいに、僕に火花を起こさせる材料はいくらでもあるように思えた。
僕は拳を握りテーブルを強く、ノックした。エクスキューズ、ユー。
「君につきあう余裕はないって言ったんだ。いい加減に、軽口は止めてくれないか」
「おめでと」
「は?」
「お誕生日」彼女はにっと笑った。
僕はもう相手をする気がなくなって歩き出した。だがその腕を彼女がはっしと掴むのだ。それは意外と強い力だった。
「なんだよ、放せよ」
「私のこと、わからない?」
「へ?」
僕は彼女の顔をじっくりと見た。だが全く覚えがない。首をひねるだけだ。
「そう」
彼女は僕の腕を放り出すと通りを見た。少しがっかりしているみたいにも見えた。しかし僕自身に対してがっかりしているというわけではなさそうだった。その証拠に、僕が話しかけても、僕の存在さえもしばらくの間忘れちゃってるみたいだった。やがて不機嫌そうに顔を上げると、座れば?と言った。
僕が座るのを確かめると、彼女は指を一本立てて店員を呼んだ。それから僕には何もきかずに、僕と自分の分のエスプレッソを注文した。テーブルにはチーズとトマトのピザをのせた皿がひとつあったが、ひと口も食べた形跡がなく、その為、上にのせられたバジルの葉は乾きかけていた。
「食べてもいいわよ。もう美味しくないと思うけど」彼女はピザを見ている僕に気がついて言った。
「食欲がないんだ」
「でもエスプレッソは飲むでしょ?エスプレッソを断る男は男じゃないわよね」そう言って、彼女はまた通りを見た。
エスプレッソが運ばれてくると、いつも古い時代に引き戻されたような落ち着きが辺りに漂う。僕はカップを鼻にくっつけながら、昼の喧噪と夜の静けさを想うのだ。ひと口含んでみると、現実の苦い香ばしさが咽を刺激する。本当は砂糖を入れようかどうか迷ったのだが、小夜子の前でいつもするように入れないことにした。その方が深い香りを楽しめるし男っぽい気がするからだ。
彼女はシュガーポットからグラニュー糖を三杯とって自分のエスプレッソに入れた。そしてそれを荒くかき混ぜると、くっと飲んだ。
「こうして飲むのがいいの。溶かしきれなかった砂糖もスプーンで一緒にすくうのよ。これがデザート替わりになるんですって。JKが言ってた」
僕は苦いエスプレッソを啜りながら横目で彼女を見た。「なんだ。きみ、JKのファンか」
「ファンなんかじゃない、ステディよ」
「ステディ?」
僕は彼女の上から下までを眺めた。丸襟のワンピースにローファー。そしてボブへアに眼鏡。白い襟は清潔感に溢れてはいるが、どちらかというと生真面目さの方を際立たせていた。JKの周りにはいないタイプだ。
「シガーバーにだっていつもいるのよ。あなたのことだって知ってるの。見かけたことがあるもの。ね、本当に私のこと知らない?」
彼女は僕の顔を覗き込んだ。だが僕は首をひねるしかなかった。JKの周りの派手な女たちの中にこんな地味な子が混じっていたら逆に目を引きそうなものだが、本当に記憶にないのだ。彼女はふうんという具合に鼻を突き上げた。