ジゴロウ
「だったらミドリを呼ぶわ。あのこならきみのことよく知ってるしあたしの好みも知ってるし、うまくプレゼントを選べると思うの」言いながらすでに携帯電話を取り出している。
「なんだよ、それ。なんでもいいのかよ」
僕はふて腐れそうになる気持ちを懸命に立て直している。
ところで僕らがこんなに混乱している間、奴は一度もこっちを見ないのだった。気がつかないのか、気がつくのも面倒なのか。さっきからずっとシガーをくわえたまま、バーの店先にセットされたコーヒーテーブルに座って、何かの雑誌を読んでいた。
ふと目が合ったような気がした。いや確かに目が合った。彼女と未だ揉み合う格好になりながら、僕はこの機会に当然の意思表示として奴を睨むのを忘れない。挑戦的な意志を視線に込めたのだ。
だが奴はサングラスの底を鈍く光らせただけで、平然とこっちを見ているだけだった、まるで散歩中の犬でも見るみたいな顔で。
「痛いわよ」
小夜子が僕に掴まれた腕を上げて、身体をよじった。僕はそこで、奴に思い知らせてやりたくなった。小夜子のこの腕は離さない。今、この麗しい宝物は僕の腕の中にいるんだ。それをキサマもよく見ておけよ。
腕をからめ取り、小夜子の身体ごとを抱きしめる。後ろで結ばれたカールヘアがふわりと揺れ、ハイヒールが淫らに鳴り、「ちょっと」と動揺する声ごと、僕は小夜子を抱きしめた、もちろん奴を睨みすえながら。だが、奴はいたって冷静だった。薄い口の端をわずかに上げ、シガーをゆっくりとトレイに戻すと、その空いた手の平をテーブルを拭くように二度、軽く振った。
「イージー」奴の口が動く。
僕は思わず眉を潜めた。
ゆっくりやれ、だと?それとももっと優しくしてやれ、か?いい気なもんだ。余裕を見せたいのさ。気にならないフリをして、本当は悔しいんだ。小夜子を僕に盗られそうで焦っているのに違いない。
力ずくで僕の胸に収まった小夜子は、おとなしく僕に抱かれていた。細い二本の腕はきちんと折り畳まれて、まるでいたずらし疲れた子鹿のように身をゆだねていた。
よしよし、イイコだ。僕は彼女を抱いたまま揺り籠のように左右に揺れて、彼女の乱れた息が戻るよう穏やかに呼吸を合わせていった。
一、二、三、四……五まで数えたところで、奴はおもむろに立ち上がり、シガーバーに入って行った。とうとう負けを認めたのだ。僕は小夜子を抱きながら嬉しくて奴の姿をどこまでも目で追っていった。どうだ。まいったか。
奴は店の中でシガーを物色しているようだった。そのうちヒュミドールの中へ入っていき、そして驚いたことに、出てきたときにはオレンジ色のワンピースを着た若い女を連れていた。背が高く、ショートヘアがよく似合う小さな顔だちで、髪を金色に染めている二十歳そこそこの若い女。日本人ばなれしたその姿は、どこかで見たことがあるような気がした。
「ごめんなさい」
胸の中で小夜子の声がした。
僕は力を緩めて彼女を覗き、いいんだ、と言った。
「わかってくれるならそれでいい」
「違うの。今日は本当に行けないの。ごめんなさい」
気がつくと、小夜子はバッグからコンパクトをとり出して乱れた髪を直している。途端にまた、僕の中で小夜子を失うという焦りがむくりと頭をもたげた。彼女は鏡を覗きながら言った。
「きみのことは大好きよ。できることはなんでもしてあげたいと思うわ。ほんとよ。でも今日はだめなの」
「なんでもしてくれるんだったら、誕生日くらい祝ってくれよ」
小夜子は、コンパクトから顔を上げると、片手を華奢なあごに添えた。
「今日だけはだめなの。だって」
「なんだよ」
「それとこれとは別なのよ」
淡いキャラメル色の肌がにっこりと微笑む。そのキャラメル色の微笑みを眺めているうちに、焦りは諦めに変わっていった。
「もう先客がいるみたいだぜ」
僕は店の中をあごでさした。
だがいつものことだが、奴の周りでじゃれつく若い女を見つけても、小夜子は怒るわけでもない。いや、女の存在に腹をたてるとかたてないとかいうよりも、奴に関すること全てに寛容な感じなのだ。
「ああ、パッツィーね。あのこはいいのよ。アクセサリーみたいなものだから」
なんだそれ。
「モデルよ。チェコ人とのハーフなの。パトリシアなんとかっていうのよ。父親が貿易商をやってて、世界中をわたり歩いてるの。そのうちどこかに行っちゃうわ。それに」
パチンと音をたてて、急いでコンパクトが閉じられた。
「それに?」
「いい男にいい女がついてるのは当然でしょ、画的にもね」
「なるほど。じゃあの男も、そのモデルにとってはアクセサリーに過ぎないってことか」
僕は店の中でマスターと話をしている奴と、奴に腰を抱かれているパッツィーを見た。小夜子はふふふと笑った。
「J・Kは別よ。集める人と集まる人がいるとしたら、彼は完全に集めてしまう人なの。それもイイ男とイイ女ばかり」
「それは都合がいい。奴を気に入らない人間は、最初から近づいて行かないというわけだ」僕は皮肉を言った。
「気に入らない人間?」小夜子は湧き出した泉みたいな瞳で、僕をじっと見た。
「ふうん。きみ、JKのこと、気に入らないんだ」
「べ、別に僕のことじゃないさ」
小夜子は疑いの眼差しで僕を見ると、また、ちらとあいつを見た。
「ねえ、知ってる??精神的醜悪は己のコンプレックスを餌にする?って。羨望、嫉妬、自堕落の源には太り過ぎたコンプレックが横たわっている。つまり気に入らないと言われる人より、気に入らないと勝手に言ってる人にこそ問題があるんじゃないのかしら。そういうのってだいたい、自己への嫌悪が原因なのよね、思い通りにならない自己へのね」
そう言うと、彼女は僕から自分の体を引き剥がす為に僕の胸を押した。僕は仕方なく腕を解放してやり、同時に首を振った。奴を弁護している小夜子の言葉は、いつもうまく飲み込めない。どこかいびつに集約されているような気がして納得しきれないのだ。
「精神的醜悪:::」
沈鬱な表情を浮かべてみたものの、僕にはなす術がなかった。小夜子を引き留めるどころか、言い返す言葉の一つも見つからなくなって、ぎりりと立ち尽くすだけだった。
くそっ。あんなおっさんのどこがいいんだ。
「ねえ、待てよ。それとこれとは別ってどういう意味さ」
「それは」小夜子は目をきょろりと動かした。
奴と僕か。言わずと知れてる。あのおっさんとこの僕だ。
「あ、いいよ。言わなくていい。もう、いいよ。わかったから」
「ありがと。大好きよ」
実に爽やかなキスを僕のあごに残して、結局小夜子は行ってしまった。一度も振り向かず、この短い距離を走ってまで。
やはりこうなるのか。僕はうなだれた。
小夜子が店に入っていき、奴の肩に手をのせしなだれかかるのを眺めながら、空しさとせつなさで一杯になった。出るのは太い溜息ばかりだ。奴が肩越しにウインドウの外の僕を見て肩をすくめる仕種も、それに答えて首を振ってみせる嬉しそうな顔の小夜子も、ただの暗いガラスを通した映像でしかなかった。足下の石ころさえ、背中を向けている。
結局、ハッピーバースデイの言葉すらかけてもらえなかったというわけだった。