ジゴロウ
また、あいつだ。
昼間っからシガーバーの前で怪しげな煙をくゆらせ、暗いサングラスの底から通りを窺っている、あいつ。バーの前に褐色のポルシェ・タルガを張り付かせ、舌のように真っ赤な革シートを、いかにも意味ありげに覗かせているのだ。
そのとき僕は恋人と反対側の通りにさしかかったところだった。秋の強過ぎる日ざしが町を斜めに照らしている。
ふいに、奴のサングラスの反射が光り、僕の目を射た。
出し抜けに僕は歩みを速めた。さっと小夜子の肩に手を回し、その視界に奴の姿が入らないようブロックする。危険地帯に入ったことを察知したのだ。
ところが小夜子ときたら、僕のつくった陰の中で瞳を強く閃かせると、その腕をあっさり払いのけた。ピンク色のハイヒールについたラインストーンが光ったとき、彼女の身体はすでに僕から離れかけていた。
そうだ。小夜子は先に奴の気配に気づいていた。楽しく流れていたおしゃべりは、僕が奴を発見するとっくの前に止んでいたではないか。嗅覚の鋭い小夜子のこと。奴を見逃すはずはないのだ。
まただ。
僕は頭を抱えたい思いにかられる。
こうやって、神出鬼没に、ほとんど嫌がらせに近い形であいつは僕らの前に現れ、しかもあいつのテリトリーと化していた場所に、あとから僕らが現れるというシチュエーションを見事につくってみせる。デザイナーという職種のせいか知らないが、どんな場所でも自分のモノにしてしまう才能があるのだ。全てが偶然のようでいて偶然ではない。奴が偶然を演出しているのである。状況は奴の前に跪き、主人公にしたて、予めセットされた小道具のように奴を引き立てる。当然女達は声をかけられるのを望む。気を引くチャンスを狙う。いつでも奴だけしか、視界に入らなくなるのだ。
別に僕はあいつに嫉妬しているわけじゃない。もちろん憧れてもいない。なぜこんなに分析しているかといえば、小夜子が、ご多聞にもれずあいつに夢中になっているからだ。
僕は浮き立ちかけた小夜子の腕を掴み、引き寄せた。しかしその艶やかな瞳を覗いてみると、言葉が出ない。小夜子の瞳にはもう、あいつの姿しか映っていないのである。
デートが一瞬にしてエンドになる瞬間である。ひとつの躊躇もなく、いささかの憂いもなく、小夜子は行ってしまうことになる。あとに取り残された僕は長い影を引きずって佇むしかないのだ、まるで哀れな迷い子のように。その姿がありありと脳裏に浮かんでくるようだ。この間は映画館に入る前だった。アイススケートを履いた途端、というのもあった。僕は佇み、頭が真っ白になり、そしてだんだん、ここに自分がこうしてやってきたことが間違っていたような気になってくる。隣に小夜子がいたのが、本当は間違いであったかのような気になってくる。だって、ひとしきり佇んでうなだれて、結局ひとり帰るしかないのだから。映画も観ず、アイススケートもせずに。
当然僕はせつなくなる。コーヒーを飲んでも美味しくないし、バーボンで咽を熱くしたいところだが、恥ずかしながら極端に酒に弱いときてる。ひと口飲んだだけで、体中が眠り込んでしまうのだ。
僕だって美学というものは持っている。その中には、女の子にふられたときの「男はどうあるべきか像」みたいなものもある。かなりきちんとある。だがそれを格好良くやりとげるのはなかなか難しいものだ。
せめて孤独な夜くらい、せめて女にふられた真っ当で色の濃い時間くらい、格好良い男を演じたいと思うのに、その気高い理想を肌からしみ出させるのはなかなか簡単なことではないのだ。
それを小夜子は、奴がすべて体現しているという。女にふられたことも無さそうな、少なくともそういう顔つきをしたあいつに、だ。
世の中何かおかしい。まやかしのるつぼである。ふられた僕には孤独とバーボンが似合うはずだし、奴の自己中心的軽薄さは軽蔑されてしかるべきじゃないか。そう、まるで「おしゃれなカラス」みたいに。
「なによ、そのおしゃれなカラスって?」小夜子は僕に目を戻した。
「色とりどりの羽をまとって気取ってみたけれど、結局は真っ黒なカラスなんだよ、って話さ。イソップ童話だよ」
小夜子はしばし考える仕草を見せたが、すぐに口を曲げて首を振った。そして、
「だいたいね」僕に腕を取られながら、人さし指をすらりとたてた。「今どきバーボンって言ってるところがアウトなの。なんていうか、ヘビーなのよ。そんなのカウンターの隅で頼んでる男がいたら引いちゃうわ」
そう言って、車がこないことを確かめている。バーに向かって通りを渡ろうとしているのだ。心、完全にここにあらず。こういうときの小夜子は、少し揶揄めいた言葉を放つ。
「きみの理想って、常に旧時代的なのよね」
なんだよ。僕は反発し、再び小夜子の肘を捉えた。振り向いた彼女の頬がバラ色に染まってきているのを見つけて怯むが、いやいや今日こそ、そんなことに負けちゃいられない。やすやすと奴に渡すわけにはいかないのだ。
「ねえ、離して」
小夜子の長い睫毛が僕を見上げ、嘆願した。
僕はそれを振り切る。
「今日は買い物に行くんだろう。小夜子が誘ったんだぞ。論文だって放り出してきたんだ」
論文を放り出すのは三度目だった。そのうち二つを落とし、これで後がなくなると教授に警告を与えられたばかりだった。論文のテーマはイネ科の作物の従順なる遺伝子伝達について。折しも田んぼには金色の稲穂が柔らかに波打っている時期である。一週間前には親類の農家に頼んで、農作業を手伝う予定も作っていた。爽やかな風に揺れる作物の成長は、穏やかでいて揺るぎない。それが僕の中に確かな瑞々しさを残していく。僕は子供の頃から農作業を眺めるのが好きなのだ。だがそれもキャンセルされた。小夜子に、秋冬物の新作のショーに連れていかれたからだ。それはJKのデザインする洋服のブランドだった。
「悪いけど」小夜子はあいつの姿を目の端に捉えながら急いで言った。「今日は一人で行ってくれないかしら。ほら、バーボンもいくらでも飲めるし。一人が嫌なら明日。ね、明日必ず」
「だめだ」
バーボンは引いちゃうって言ったじゃないか。
「今日は僕の誕生日のプレゼントを買ってくれるんだろう」
「だから明日」
「僕は今日、歳をとるんだ」
ふいに小夜子の動きが止まる。
「トシをとる、なんて。変な言い方するのね」
「なんでさ。そのままじゃないか」意表をつかれて僕は動揺した。
小夜子はにこっと笑い、しかしすぐに笑顔を消すと「じーさんみたい」と僕を睨んだ。「そういうところ。一時が万事なのよね」
僕はその言葉の意味がわからずに、目を泳がせた。なんで。そんなに呆れられることか??トシをとる?って言ったことぐらいが?小夜子の突拍子もない行動のほうがよっぽど呆れるぞ。
「じゃなんて言えばいいのさ」
「もういいわよ」
「よくない」
「なによ」
「買い物、行くんだ」
小夜子は僕の腕から逃れようと暴れ、しかしそれが叶わずにはあはあと息をついた。その間も何度も通りの向こうの奴を見る。
「約束だろ」僕は彼女の視線を断ち切るように言った。
昼間っからシガーバーの前で怪しげな煙をくゆらせ、暗いサングラスの底から通りを窺っている、あいつ。バーの前に褐色のポルシェ・タルガを張り付かせ、舌のように真っ赤な革シートを、いかにも意味ありげに覗かせているのだ。
そのとき僕は恋人と反対側の通りにさしかかったところだった。秋の強過ぎる日ざしが町を斜めに照らしている。
ふいに、奴のサングラスの反射が光り、僕の目を射た。
出し抜けに僕は歩みを速めた。さっと小夜子の肩に手を回し、その視界に奴の姿が入らないようブロックする。危険地帯に入ったことを察知したのだ。
ところが小夜子ときたら、僕のつくった陰の中で瞳を強く閃かせると、その腕をあっさり払いのけた。ピンク色のハイヒールについたラインストーンが光ったとき、彼女の身体はすでに僕から離れかけていた。
そうだ。小夜子は先に奴の気配に気づいていた。楽しく流れていたおしゃべりは、僕が奴を発見するとっくの前に止んでいたではないか。嗅覚の鋭い小夜子のこと。奴を見逃すはずはないのだ。
まただ。
僕は頭を抱えたい思いにかられる。
こうやって、神出鬼没に、ほとんど嫌がらせに近い形であいつは僕らの前に現れ、しかもあいつのテリトリーと化していた場所に、あとから僕らが現れるというシチュエーションを見事につくってみせる。デザイナーという職種のせいか知らないが、どんな場所でも自分のモノにしてしまう才能があるのだ。全てが偶然のようでいて偶然ではない。奴が偶然を演出しているのである。状況は奴の前に跪き、主人公にしたて、予めセットされた小道具のように奴を引き立てる。当然女達は声をかけられるのを望む。気を引くチャンスを狙う。いつでも奴だけしか、視界に入らなくなるのだ。
別に僕はあいつに嫉妬しているわけじゃない。もちろん憧れてもいない。なぜこんなに分析しているかといえば、小夜子が、ご多聞にもれずあいつに夢中になっているからだ。
僕は浮き立ちかけた小夜子の腕を掴み、引き寄せた。しかしその艶やかな瞳を覗いてみると、言葉が出ない。小夜子の瞳にはもう、あいつの姿しか映っていないのである。
デートが一瞬にしてエンドになる瞬間である。ひとつの躊躇もなく、いささかの憂いもなく、小夜子は行ってしまうことになる。あとに取り残された僕は長い影を引きずって佇むしかないのだ、まるで哀れな迷い子のように。その姿がありありと脳裏に浮かんでくるようだ。この間は映画館に入る前だった。アイススケートを履いた途端、というのもあった。僕は佇み、頭が真っ白になり、そしてだんだん、ここに自分がこうしてやってきたことが間違っていたような気になってくる。隣に小夜子がいたのが、本当は間違いであったかのような気になってくる。だって、ひとしきり佇んでうなだれて、結局ひとり帰るしかないのだから。映画も観ず、アイススケートもせずに。
当然僕はせつなくなる。コーヒーを飲んでも美味しくないし、バーボンで咽を熱くしたいところだが、恥ずかしながら極端に酒に弱いときてる。ひと口飲んだだけで、体中が眠り込んでしまうのだ。
僕だって美学というものは持っている。その中には、女の子にふられたときの「男はどうあるべきか像」みたいなものもある。かなりきちんとある。だがそれを格好良くやりとげるのはなかなか難しいものだ。
せめて孤独な夜くらい、せめて女にふられた真っ当で色の濃い時間くらい、格好良い男を演じたいと思うのに、その気高い理想を肌からしみ出させるのはなかなか簡単なことではないのだ。
それを小夜子は、奴がすべて体現しているという。女にふられたことも無さそうな、少なくともそういう顔つきをしたあいつに、だ。
世の中何かおかしい。まやかしのるつぼである。ふられた僕には孤独とバーボンが似合うはずだし、奴の自己中心的軽薄さは軽蔑されてしかるべきじゃないか。そう、まるで「おしゃれなカラス」みたいに。
「なによ、そのおしゃれなカラスって?」小夜子は僕に目を戻した。
「色とりどりの羽をまとって気取ってみたけれど、結局は真っ黒なカラスなんだよ、って話さ。イソップ童話だよ」
小夜子はしばし考える仕草を見せたが、すぐに口を曲げて首を振った。そして、
「だいたいね」僕に腕を取られながら、人さし指をすらりとたてた。「今どきバーボンって言ってるところがアウトなの。なんていうか、ヘビーなのよ。そんなのカウンターの隅で頼んでる男がいたら引いちゃうわ」
そう言って、車がこないことを確かめている。バーに向かって通りを渡ろうとしているのだ。心、完全にここにあらず。こういうときの小夜子は、少し揶揄めいた言葉を放つ。
「きみの理想って、常に旧時代的なのよね」
なんだよ。僕は反発し、再び小夜子の肘を捉えた。振り向いた彼女の頬がバラ色に染まってきているのを見つけて怯むが、いやいや今日こそ、そんなことに負けちゃいられない。やすやすと奴に渡すわけにはいかないのだ。
「ねえ、離して」
小夜子の長い睫毛が僕を見上げ、嘆願した。
僕はそれを振り切る。
「今日は買い物に行くんだろう。小夜子が誘ったんだぞ。論文だって放り出してきたんだ」
論文を放り出すのは三度目だった。そのうち二つを落とし、これで後がなくなると教授に警告を与えられたばかりだった。論文のテーマはイネ科の作物の従順なる遺伝子伝達について。折しも田んぼには金色の稲穂が柔らかに波打っている時期である。一週間前には親類の農家に頼んで、農作業を手伝う予定も作っていた。爽やかな風に揺れる作物の成長は、穏やかでいて揺るぎない。それが僕の中に確かな瑞々しさを残していく。僕は子供の頃から農作業を眺めるのが好きなのだ。だがそれもキャンセルされた。小夜子に、秋冬物の新作のショーに連れていかれたからだ。それはJKのデザインする洋服のブランドだった。
「悪いけど」小夜子はあいつの姿を目の端に捉えながら急いで言った。「今日は一人で行ってくれないかしら。ほら、バーボンもいくらでも飲めるし。一人が嫌なら明日。ね、明日必ず」
「だめだ」
バーボンは引いちゃうって言ったじゃないか。
「今日は僕の誕生日のプレゼントを買ってくれるんだろう」
「だから明日」
「僕は今日、歳をとるんだ」
ふいに小夜子の動きが止まる。
「トシをとる、なんて。変な言い方するのね」
「なんでさ。そのままじゃないか」意表をつかれて僕は動揺した。
小夜子はにこっと笑い、しかしすぐに笑顔を消すと「じーさんみたい」と僕を睨んだ。「そういうところ。一時が万事なのよね」
僕はその言葉の意味がわからずに、目を泳がせた。なんで。そんなに呆れられることか??トシをとる?って言ったことぐらいが?小夜子の突拍子もない行動のほうがよっぽど呆れるぞ。
「じゃなんて言えばいいのさ」
「もういいわよ」
「よくない」
「なによ」
「買い物、行くんだ」
小夜子は僕の腕から逃れようと暴れ、しかしそれが叶わずにはあはあと息をついた。その間も何度も通りの向こうの奴を見る。
「約束だろ」僕は彼女の視線を断ち切るように言った。