しっぽ物語 12.野の白鳥
傍にいる人間にしか聞こえない程度の低さで、Dが零した。目ざとく反応し、青年は思ったよりも落ち着いた返事をかえした。
「まだなってない」
張り付いたようにソファへ腰を落としたLに冷え切った表情を向けるまでに、院長が幾分上擦った、それでも確かな威厳を漂わせる声をあげた。
「ここは教会の敷地内ですよ」
「あんたに言われたくない」
つまらないと言わんばかりの鼻息が項を擦ったのか、人質にされたFは痙攣するように肩を揺らした。まだ最後のふてぶてしさを捨てきれない表情で、青年より先に父親へ向き直る。
「頭おかしいんだ、こいつ。自分の事、あんたの隠し子だって言い張ってる」
「お前が知るわけないさ、生まれる前だったんだから。25年前に」
細めた目の隙間から暗い色の瞳を覗かせ、青年はLに顔を近づけた。
「経済学部のブルネットと付き合ってなかった?」
「O、ここには来るなと」
日焼けした顔色を紙のような白さに変え、Gは言った。
「また今度連絡すると、話はついたはずだ」
「何の話だ」
いきり立ったLが声を低める。直接当たる空調のせいか、理解出来ていない事態に振り回されつつあるせいか、カメラ映りを気にして念入りにセットされていた前髪が、いく筋か落ちて額に掛かっている。
「お前、俺に何か隠してることがあるのか?」
「煩わすようなことじゃないと判断したんだ」
「いつもそうさ、あんたが止めちゃって、何も伝わりゃしない」
Oの嘲笑は、乾燥した空気と同じ濃度で広がる。
「他にも隠してることが一杯あるだろう」
「落ち着け」
髪をかきむしっていたRは、ようやく自らがその言葉を掛けられても対処できるほどの心理状態になったらしい。肉のついた腹を前へ押し出し、手を伸ばした。
「そんな物騒なもの振り回さなくても、話は出来るだろうが」
「あんたにはここであったこと、全部記事にしてもらわなくちゃならないんだ」
幾らしつこく食い下がることで有名なジャーナリストとは言え、銃を向けられれば元の場所へ戻らざるを得なかった。何度か小さな唇を噛むように動かしたが、結局力なく腕を下げてしまった。
Oは凝視し続けるLに再び視線を向け、それから彼へ突きつけるようにしてFの腕をねじり上げ、対面させる。食いしばった歯の内側から怒りの唸りを発する青年の横面に背後から頬を寄せ、掛けたままだった銃の安全装置を解除した。
「似てないのはご愛嬌だ。整形したからね」
「経済学部だって?」
Lは慎重に言葉を選び、返事をする。
「人違いじゃないか」
「ほら、やっぱり覚えてない」
誰に言うでもなく呟いた言葉に、Rだけが首を振ってみせた。
「思い出したほうが身のためだと思うぞ」
「本当に覚えがない」
Lは身を乗り出した。指差した先を糾弾するように、一際声を張り上げる。
「こんな奴、知るもんか」
Oは薄い笑みを口の端に乗せた。
「だろうと思った」
「くそったれ」
Fが吐き出すように呟いた。
「適当に認めときゃ、息子がさっさと助かるとか、考え付きもしねえんだ」
「酷い父親だね」
軽く引金を引いては離す硬い音の神経質さに飲まれたよう、張り詰めた空気が緩められることはない。女は先ほどから、背後で続けられる院長の身じろぎのせいで、いつにない巨大な苛立ちを覚えていた。断続的ではあるものの、止む事もない。
「条件は一つだけ。お袋に慰謝料を払うこと」
渦巻く感情に全く動じることなく、Oは言い放った。
「今すぐに書類を持ってこさせて手続きをしろ。そう、D」
鬼のような形相で睨みつけるCから逃れるため今にも崩れそうな愛想笑いを浮かべているDを、顎でしゃくる。
「電話して、弁護士を。908?×××?××××」
「何でうちの嘱託の連絡先を」
あっけにとられた表情のLを冷たく見下ろし、Oは言った。
「調べたからに決まってるじゃないか」
女が座っているソファへ足をぶつけながら、院長が前へ進み出て来たのは、その瞬間だった。
「私が代わりに人質に」
「やめるんだ、B」
Gが制止するよりも早く、彼は女の前へ立ちはだかるよう、その身を晒していた。決意が盛り上がり、どこまでも強い口調で、さらに言葉を続ける。
「彼は私と血の繋がった弟です。今まで罪を犯しては来ましたが、まだ償いを済ませてはいません」
この距離ならば息を吸う音まで克明に聞こえてくるから、辛うじて彼の人間らしさを理解できる。それさえ覗けば、確かに聖職者を名乗る院長の姿は、神のようなものだった。
それほど年の変わらない青年に、彼は精一杯の誠意と丁重さを込めて哀願した。
「父の息子を盾にすると言うのなら、私であっても問題はないでしょう。抵抗はしません。死も恐れません」
「馬鹿なこと言うんじゃない」
腰を浮かしかけたLが叱りつける。
「こんな時に教義を振り回すのはよせ」
「そうだ、やめるんだ」
再び呻いた声へ呼応するように、Gの肩はわなわなと激しい震えを擁していた。
「やめろ」
三人の親族をぐるりと見回してから、Oは馬鹿にしたような口調で言い捨てた。
「あんたを人質にしても意味がない」
それから、何をも恐れぬまっすぐな視線で、院長を突き刺す。光のない黒い瞳の底が動くことはなく、人質の腕を掴む手に慈悲が加えられることもない。
「あんたは奴の息子じゃない」
「それ以上言うな」
Rが苛立ちを露にして言葉を断ち切る。
「話をややこしくしてどうする」
「いいじゃあないか、あんただって儲かる話なんだから」
息音すら漏らさず、教会に掲げられた十字架の如く身動きをやめた院長へ、Oは愉悦の色さえ込めて止めを刺した。
「従兄弟とは仲良くすべし、って、聖書でも言ってるからね」
雄弁とは言いがたいが、それまで自らの意思に包みこまれた神の御心を必死で紡いでいた口は、凍りついたまま二度と言葉を吐こうとはしなかった。その心構えを裏切るように悲鳴一歩手前の声を上げたのはGだった。瘧のようだった肩の震えはぴたりと止んでいる。
「大嘘だ、違う。違う、そんな訳がない」
「万が一俺にあんたの血が混じってないとしても、これだけは確実だよ。あんたの妹から聞いたんだから」
Oは醒めた口調で告げ、最後にもう一度院長に微笑みかけた。
「神に誓ってもいい」
「とんだでたらめだ。そんなわけが……あいつが、そんなこと言うわけない」
爆発のような勢いで主張してから、Gは裂け目のような薄い唇を強く結び、動くことをやめてしまったBを見つめる。性格どころではない。相手を捕らえようとする上目遣いの送り方が、この二人の関係をはっきりと示していた。
一方的な疎通の両端を、Lは往生際も悪く何度も何度も見返していた。
「何だって」
やがて、縺れるような声色を辛うじて搾り出すことに成功したが、答えるものは誰もいなかった。Rはただ、この情景を焼き付けておこうとでも言いたいのか、目を皿のようにしているのみ。Dの傷一つない表情が歎息を漏らしている間に、Cが唇を噛み締め様子を窺っていた。片腕男の問いかけが、嫌でも静寂の隙間へ潜り込んでくる。
「それって、近親相姦って奴か?」
「さあ」
医師が視界の端で飄然と肩を竦めた。
作品名:しっぽ物語 12.野の白鳥 作家名:セールス・マン