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しっぽ物語 12.野の白鳥

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「ただ座ってるだけなら問題ないでしょう。まさかプリンセスの晴れ舞台を台無しにするつもりなど、ありませんよね」
「勿論」
 医師の問いに、男は何度も頷いた。
「邪魔なんかしない」
「この病院の経営者の父親なのに。院長が怒るわよ」
「肩書きは何であろうと、所詮見舞い客ですから」
 女の怒りなどどこ吹く風で、医師は典型的なWASPの呈で肩を竦めた。
「それほど特別待遇をしなくてもね。人間は皆平等だと、神も言っている」
 医師の言葉が終わるか終わらないかのうちに、女はその場から歩み去っていた。寄った眉根を見せたくはない。
「プリンセス」
 後ろから、困惑気味の声が追いかけてくる。いつの間にか人通りが絶え、静まり返った廊下では、甲高いかすれ声がよく響いた。
「心配しなくても、何か嫌な目にあったら、俺達がとっちめてやるよ」
「違うわよ、馬鹿」
 正面で待ち構える、人気のない談話室に向かって怒鳴りつける。今男が浮かべているであろう、混じりけのない憧憬など見たくもなかった。理想ばかり見すぎてぼけてしまった頭が、現実に現れたどんな言葉も理解しないであろうことは、分かりきっていた。
「すぐにみんなを呼んでくるから」
 とどめの言葉は心の奥底で絶大な違和感となり、談話室の天井を覆うヤニの如くへばりついた。


 言葉を違える事はなく、男は女が談話室の中央を陣取ってから10分もしないうちに、仲間を呼んできた。足場から転げ落ち両足首を骨折した元建設業者。耳が遠くなりつつある黒い肌の老人。ギャングの手下になってすぐ銃で撃たれ、十二指腸を吹き飛ばされたプエルト・リコの青年。彼らに向かって、男は健在な右腕をシャーマンの如く掲げて見せ、真面目な顔で告げる。
「プリンセスは今、気分が良くない」
 そしてお互いの絆を確認するよう頷き合うと、女の背後、部屋の隅にあるソファへ収まった。密やかに交わされる気遣いの言葉が不愉快で堪らない。


 いつも座る窓際ではなく、小さな合成樹脂のテーブルを挟んで4人掛けのソファが向き合う形の席は妙に肌寒かった。カーディガン一枚ではとても耐えられるものではない。腕を摩り、固めの背凭れに身体を押し付ける。それでもぬくもりはやってこなかった。



 蔓延する寒さで期待は縮こまるばかり。本当にやってくるのだろうか。一体何を話すのだろうか。せめて質問の内容を教えて欲しい。認めたくはなかったが、女は今更ながら巨大な不安が身を襲うのを、如実に感じ取っていた。


 頭痛が起こらないよう脳と感情に相談しながら、思い出せる限りで記憶を辿る。いつの間にか、ベッドに寝ていた。それ以前のことは、白く柔らかな光となって溶けてしまった。光に手を伸ばすことは、勿論美しいとすら感じてはいけない。首を捻り、誰もいない窓辺に向ける。アルミサッシのはまったガラス窓は、壁の上半分を占めるほどの広く、差し込む光を余すことなく部屋に連れてきてくれる。ぴったりと一致するとは言わないまでも、特に午前中の明るい色は、頭の中を漂うあの白さと良く似ていた。温度はそれほど高くないが、包み込まれていれば少なくとも安心は出来る。時が経ち、光が橙色に変わるまで、女はよく一人用のソファを占領し、今という時間を感じていた。
 それがいつの間にか、人が集まり、しがらみを押し付けられ。


 どうせ無理やり動かされるなら、もっと圧倒的な誰かに救い出して欲しい。


 二の腕に爪を立てていたら、いつの間にか傍に来ていたチンピラが、自らが着ていた紺のスポーツジャケットを差し出した。無言で引ったくり、袖を通す。彼が常に首筋へ振りかけているパコ・ラバンヌの匂いが身体中の傷を疼かせる。
「私って何なの」
 目を合わせたまま女が問えば、寡黙な青年は困惑の表情を浮かべた。畳み掛けるように、質問を加える。
「これからどうなるの」
 振り返った青年が発したSOSに答えられる人間は、誰一人としていなかった。皆が一様に戸惑っているのが、苛立たしい。
「哲学的だ」
 足をギプスで固定された男が、車椅子の中で遠慮がちに笑う。
「あんたは『プリンセス・マイア』で『ボードウォークの天使』」
 半分だけしかない左腕と共に、隣から男が助け舟を遣す。
「それで、これからきっと、幸せになれる人間さ」
「本当に?」
 掠れた声で女は聞いた。彼らの前で、こんなにも弱気をさらけ出してしまったのは、初めてかもしれない。


 頭痛はしないが、大人しいと思っていた動悸が不意に大きく聞こえる。今まで努めて意識しないようにしてきたのに。苦しくて、今までのようにもったいぶっている余裕すらない。曝け出してしまわなければ気が済まなかった。
張り裂けそうな胸の鼓動を、掻き合わせたジャケットの前で隠しながら、女は素直な気持ちで尋ねた。
「本当に私、幸せに」




「まだ来てないみたいだな」
 言葉なんてあっけない。全ての注目が視界の中へ飛び込んできたスーツの色に攫われたのは、彼女の舌が乾きのあまり口の中でこんがらがってしまった瞬間だった。
 蔦緑色のスーツと目に痛いほど白いシルクのシャツは明らかにヨーロッパ製のもので、念入りに後ろへ撫で付けられた髪と、派手な顔立ちに良く栄えている事は事実だった。しかし全てがくすんだこの部屋の中ではあまりにも場違いで、空気の色すら変えてしまっている。
「『マイアミバイス』のソニー・クロケットみたいだな」
 老人が呟くのを流し聞きながら、女は立ちはだかる男をぼんやりと見上げた。
「あなた、誰」
 青年は驚いた顔で、大きな瞳を更に丸くした。
「覚えてない?」
 腰を叩いてみせる動作の意味をはかることが出来ず、女は首を振った。
「こんな悪趣味な服着てる人、知り合いにいなかったわ」


 傷だらけのタイルを踏みしめる鰐皮のローファーを見下ろせば、傷の辺りに溜息が降ってくる。確かにソニー・クロケット。流石に靴下は履いていたが、うっかりするとやくざものと勘違いされかねない様相だった。病院どころか、アトランティックシティという街そのものから、数インチほど浮いている。
「もしかしてあなた」
 女の背後に控える患者達へ小馬鹿にしたような視線を送るのを中断し、青年は絵に描いたかのような綺麗さで、整えた眉を吊り上げた。
「私を迎えにきてくれたの?」
 目の奥で燃やす感情だけはここへ来た時から一切変えないままで、青年は鼻を鳴らした。
「馬鹿いえ」
 女が安堵する間も与えず、彼はぐるりと篭った匂いに占められつつある部屋を見回した。
「しかし貧相なところだな。え? 天使さん」
 からかいを含んだ口調の端々に、西海岸風のアクセントが見え隠れしている。背後で誰かが立ち上がろうとする前に、女は口を開いた。
「何の用?」
「あんたじゃない。新聞記者さ、知ってるだろう」
「インタビューに来る人?」
「そう」
 落ち着きなく目をうごめかし、男達にも無言で答えを求める。彼らが首を振ったことを女が知ったのは、ぽんぽんと威勢よく言葉を吐き出していた唇が強く噛み締められたことで知った。
「くそっ、Lたちについてまわってやがるのか」
「何があったんだ」
 片腕の男が声を上げた。
「プリンセスに危ないことでも?」
「プリンセス?」