しっぽ物語 12.野の白鳥
「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。『おやおや、神殿を打ち倒し、3日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。』同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。』一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった」
キリストが苦しんでいる場面のはずなのに、男はどこか甘く、柔らかい不思議な微笑を浮かべている。細められた瞼の奥に、男の本性を見たような気がして、女は打ちひしがれていた心がまた少しずつ鎌首をもたげて来るのをはっきりと感じた。更なる粗を探そうと青灰色のまなこを見開き、姿勢を正す。
最後の山場、彼は幾分声を高め、創造主を崇める人間ならば誰もが知っている台詞を、ゆっくりと、誇らしげに吐き出した。
「3時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』」
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
これ以上ないほど皮肉な口調で、女は後を継いだ。
「息子にすら信用されてない神なんて」
「今の言葉は聞かなかったことにしておきますが」
興奮で少し赤らんだ頬を持ち上げ、ほっと息をつく。
「御子は神への賛辞を告げようとして息絶えたのです。この言葉は、その冒頭に過ぎません」
「それでも最後まで言えなかったなら、みんな勘違いするだけじゃないの」
冷たく言い放つと、立ち上がってカーテンの向こう側に足を踏み出す。こちらが光の中に入った瞬間、幻滅する。あれほど荘厳さを掻きたてていたはずの、聖書を抱え込むようにして身を丸めた黒いジャケットが、とてつもなく野暮臭いものに見えた。
陰気な仕草で、男は首を振った。今回は、これくらいにして諦める気になってくれたようだった。
「いつかは貴女も、身を以って知ることになるでしょう」
スニーカーからはみ出した足の甲を這い上がってくる寒気に少し身を震わせてから、女は強気に鼻を鳴らして相手を見下ろした。
「そのときは、よっぽど面白いことになってるでしょうね」
廊下は部屋に比べて暖房が効いているとの話だったが、それにしても微々たるもの。空気を重く淀ませているのは、病院関係者の慌しさと、今日の主賓に部屋を覗いてすらもらえない、長期入院患者たちの体臭だった。通りすがりに声を掛けてきた男のジャージは辛うじてこざっぱりしているが、通りすがりに声を掛けられた時、背後について回っていた停滞の匂いが鼻を擽る。昨晩許可された彼女の特例を除き、風呂は週に一度だけだった。
「めかしこんで、別嬪だな」
失った左腕の軽さによる特徴的な歩みは、女が面白がるとわかってわざと大袈裟に行っているものだとは、無論知っていた。無視しようと思ったが、結局立ち止まり、短い距離でもだるさを覚える身体を塗装の剥げかけた壁につけた。
「気分はどうだい」
「最悪よ。疲れちゃう」
「今から疲れてちゃ身がもたないぜ」
黄ばんだ歯をむき出して笑い、無事なほうの腕を差し出す。
「ま、このニュースが流れたら、家族が迎えに来てくれるかもしれないからな。せいぜい頑張りな」
「あなた、私にいなくなって欲しいの?」
片眉を上げてきつい口調を作れば、あっけなく表情は暗い方向へと転落する。掌をジャージのズボンに擦りつけながら、男は項垂れた。
「そんなことは露とも考えちゃいないが」
向けられた卑屈な上目遣いを無視し、女はそっぽを向いて見せた。
「やらせてもくれないから、どうでも良くなったんでしょ」
「そんなそんな」
やるという言葉を吐いたときには、男の方が激しく顔を顰めていた。
「ただ俺たちは、あんたに幸せになって欲しいだけさ」
「ここを出たって幸せになるとも限らないわよ」
「そりゃそうだが……あんたがいっつも言ってるとおり、ここは肥溜めみたいな場所だからな」
「確かにね」
「その様子だと、大丈夫そうだ」
背後から顔を出した担当医が、長い脚を大股で動かす、きびきびした動きで近付いてくる。他の医師たちと違い彼だけは喧騒に巻き込まれることなく、いつもの鷹揚な笑みを崩さない。
「ゲストはさっき到着しましたよ。今一つ下の階で、小児病棟の子供たちの話を聞いているはずです」
長い首から落ちそうな聴診器を引っ掛けなおし、ゆったりとした仕草で腕のロレックスを掲げた。
「そうですね。あと30分くらいで三階に上がってくるでしょう」
「だから俺も、病室へ帰るように追い立てられたのさ」
今はない左腕を振り回し、男はいきまいた。
「どうせ俺のところになんか来やしないって言うのに。封じ込め政策って奴だ」
「そういう訳でもありませんが、あまり周りがざわついていたら落ち着かないでしょうから」
男は眼鏡の向こうで細めた瞳を、二人の患者へ交互に振りまいた。
「なにせ病み上がりの人間に、人のざわめきは苦しい」
「あれ、ここに入院してたのか」
「いいえ。メタノール中毒で、私立病院のほうに」
「はっ、金持ちは病気になってもこんなところへはおいでにならないってわけか」
医師の思惑通り、男が皮肉な口調で鼻息を噴き出すのを、女は醒めた目で眺めていた。
「身分が違うから、俺達みたいな奴がプリンセスの周りをうろついてるのなんか、見たくないわけだ」
「来るつもりだったの?」
女は顔を顰めた。
「インタビューの間も?」
「だってさ、不安だろう」
当然と言った調子で、男は胸を張った。安全ピンで留められたジャージの腕が、ひらひらと揺れる。
「昨日、リコやディーディーと話し合ったんだ。酷いことをされないように、俺達が見張っといてやろうって」
「インタビューやお見舞いなんかで、そんな酷い目にあわせるわけないじゃないの」
光景が目に浮かぶようだった。談話室の汚いソファの中で背筋を伸ばし、凛とした表情のまままっすぐ正面を見据える自分。有り余る同情を湛え、神妙な顔つきで自分の一言一句に頷く顔も見たことのない院長の父親。傍で逐一メモを取る、太った新聞記者。彼らが発言するたびに真顔で茶々を入れる、いつもの不完全な取り巻きたち。がなり声を思い出すだけで、ぞっとする。
この時ばかりは、院長の配慮に感謝する気持ちになった。冷たい目つきで寝癖のついた男の頭を見つめると、彼は居心地が悪そうに身を揺らした。
「大丈夫、結構よ」
「見舞いは一応、病室で行う予定だったんだが」
そのとき、医師は綺麗な指先で顎を撫でながら呟いた。
「それだけ元気なら、談話室でやっても問題はなさそうだ。病室は狭いし、重症の患者が寝込んでいるから、あまり騒がしくやられるとまずい」
男を覗き込み、にっこり笑う。
「大人しくしてるって言うのなら、円卓の騎士諸君を招集してもいいんじゃないかな。一人もいない談話室って言うのも不自然だし、崇拝者がいるって設定の方が、神秘性が増して面白い」
「そんなの」
女は愕然として言った。
「うるさかったら、病み上がりの人間は苦しくなるんでしょう?」
作品名:しっぽ物語 12.野の白鳥 作家名:セールス・マン