しっぽ物語 12.野の白鳥
「彼は欲望に囚われている。あのような生き方で、本当に楽しいんだろうか。神の愛も知らず、ひたすら眼の前のものを追いかけ続けて」
言いながらひたと視線を合わせ、いつもの悲しげで、そしてあくまでも高貴な瞳を潤ませる。このヘーゼル色と、少し面長の顔立ちが何かに似ていると、女は今までずっと考え続けてきた。積極的に見つめ返し、汚れた窓から降り注ぐ陽光の中、一人で輝く男の姿から今度こそ何かを引き出そうとする。白い輝きは女には眩しすぎたため、片手で全開になっていたカーテンを閉めながら、すっと通った鼻筋に集中する。俳優のような気がしたが、思い浮かばなかった。もしかしたら、過去に会った男の顔かもしれない。また頭痛がしそうなので記憶を手繰り寄せようとするのは止めておく。
「貴女が心配なのです」
見つめる顔を動かすことなく、男は言った。
「貴女もそのような……何かを、それが何なのかは分からないが、求め、渇望しているように思えるのです。まるで追い立てられるかのように」
「そうかしら」
「そして、その事実にまだ気付いていない。どうです」
ふっと息をつき、目元を緊張させる。
「話してくださったら、何か手助けできるかもしれません」
女が機嫌を損ねたことなどお構いなしに、言葉は一つ放たれるごとに真剣みと荘厳さを帯びた。
「貴女は、何を恐れているのですか」
女の言葉を待ち続ける、薄く開き気味の唇に、何かが足りないような気がする。首を傾げた。眼の前の顔も、視界と一緒に傾く。
何のことはない。ぱちんと泡がはじけるように景気よく飛び出してきたイメージは、彼の眼ではない、鼻でもない、口でもない。首からぶら下がり、左手で時おり触れられるロザリオが運んできた。
斜めから光が当たった時の表情が、どこか神の御子、ジーザス・クライスト・スーパースターに似ていた。
思い至った途端、芽吹いていた嫌悪は一気にその丈を伸ばした。神が嫌いなわけではない。眼の前の男が人間であることを知っていたから、怒りが湧いてきた。
「そんなこと、あなたに話さなくちゃいけないの?」
不機嫌も露に喚いても、返事はない。男は磔刑を目前にしているかのような大人しさで、じっと視線を注ぎ続けているだけだった。ヘーゼルがやわい瞼の動きで時おり輝く様は、感情を一層逆撫でした。全て受け止める、とでも言いたいのだろうか。
「何様のつもりよ、話してみろとか手助けするとか! そんな偉そうに言うもんじゃないわ! あなたの父親はどうか知らないけど、私は悪人なんかじゃない。自分の周りで起きてることを正直に受け取ってるだけよ、それが悪いこと?」
苛立ちを発する根元にある存在が何か、女はちゃんと分かっていた。けれど怒りと軽蔑は心の許容量を軽くあふれ出し、口から垂れ流され続ける。溜まった唾を飛ばし、身に留まれば毒となり頭痛をもたらすであろう感情を一緒に吐き出してしまう。
「まるで周りの人間がみんな悪者だって言い方、聞いててイライラするわ。あなただって同じでしょ。どうやって院長になったか、みんなが話してるの聞いて、知ってるんだから!」
久しく出さない大声で、息は簡単に上がった。ミント味の唾液は飲み込むたび血のような味になる。
「自分一人が正しいって顔してるけど、そんなの言い切れる? 自分は悪い人間じゃないって、堂々と胸を張るなんて、それこそ悪人以外の何者でもないじゃないの」
一息に最後まで言い切ってしまい、目つきを険しくする。少しでもまともな言葉が返ってきたらお慰みだ。摩り替わった優越感に満足し、女は唇を少し綻ばせた。
身動き一つせず話を聞いていた男の、鮮やかな虹彩にある感情が動くことはない。普段と変わることなく、肩をいからせ組んだ手を握り締め、ひたすら悲しげに目を潤ませている。余りにも澄みきった風貌は威圧を感じさせるほどで、ただ唇だけが少し緩んでいた。鉄壁だった。その顔は確かにこちらへ向けられているはずなのに、突きつけられた全ての期待をものの見事に弾き飛ばしている。
「ねえ、聞いてるの。あなたはどう?」
先に焦れてしまい尖った声を出せば、開きかけていた唇の隙間はようやく静かな言葉を漏らす。
「私も確かに、完璧な人間とはいえないでしょう」
女が勝ち誇った表情を浮かべる前に、話は継がれる。
「ですが私を含め、人々は常に救われたいと願い、神の意思に沿おうとします。その努力を、きっと神は認めてくださる」
あらかじめ用意されていたかのように微笑み、男は聖書を開いた。
「人間誰しも原罪を背負っています。けれど私は幸いなことに、取り返しのつかない罪というものを犯していない。貴女もおそらくは」
「取り返しのつかないって、なに」
「言葉には出来ないようなおぞましい罪」
目を伏せ、慣れた動作でページを捲っていく指先にまで神妙さが行き渡っている。
「時にそれは、自分の力ではどうにもしようがないこともあります。たとえばアダムが最初の妻リリスを連れ戻すことが出来ず、リリスが悪徳の子を産み続けたように。けれど、私たちは清く正しい心を持っていれば、そのようなことには」
目的の場所を探しえたのか、口元の笑みが自然なものに変わった。持ち上げられた顔の美しさは、確かにとてつもない。神の言葉を堂々と振りかざす権利があるように思える。
女は歯軋りすることで、握り締めた拳を振り上げようとするのを懸命に抑えた。
「貴女は今まで、多くの苦悩や痛みに晒されてきたし、これからもそうあるでしょう。けれど全ては試練なのです。挫けてはいけない。神は貴女をいつでも見守っているのですから」
目を細め、開いた場所を指で辿りながら読み始める。余りにも有名なその節が彼のお気に入りで、しかもかなりの時間を要するものであることは、以前無理やり引き出された説教の際の引用で嫌というほど知っていた。
「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した」
訥々と紡がれる言葉は、音楽に近い。中身を認識しなくとも、声色だけを聞くのならば悪いものではなかった。女は憮然としたまま正面を見つめた。この男は今まで目にしてきた中でも、かなり上玉といえる見目と地位を有している。それなのに、色目はおろか、一人の女として感情を持たれているかすら怪しいものだった。『院長先生に限ってそれは』。誰だったか、取り巻きの男が恐れおののいた口調で告げていたのを思い出す。『あの方は、神に仕える人間としては非の打ち所がない潔白な性格の持ち主ですよ』。
作品名:しっぽ物語 12.野の白鳥 作家名:セールス・マン