しっぽ物語 12.野の白鳥
前かがみのまま首を捻る無理な体勢なのに、看護師の眼はまっすぐ女の顔を見据えていた。茶色の瞳はいつもどおり乾いているのに、淀みは一切ない。
「呼吸もしているし、胸だって上下してる。脈拍だってしっかりしてるし、動かなくても、ちゃんと生きてるんです」
あまりにもきっぱりとした口調だったので、言い返すことが出来なかった。何故だか無性に悔しくて、バケツに放出された尿を枕元の表に記入している背中を、無言で睨みつけた。無論、相手が振り向くわけはない。湧き上がる腹立ちは危うく唇から飛び出してしまうところだったが、渾身の気力で抑え込み、口の中で噛み砕くに留める。こんな看護師なんかに。女は舌だけを動かして呟いた。私のこと、分かってたまるもんですか。
バケツを運び出す前に、看護師は女の顔ではなくサイドボードの櫛と鏡に、いつもの眇目を向けた。
「櫛、使ってくださいね」
「梳くほどないわよ」
憮然としながら、女は結局二つを手に取った。帽子は脱がず、ようやく耳や額の中ほどにまで掛かるようになった髪にだけ、申し訳程度に櫛の歯先を当てる。
「もう少し生え揃ってから、写真を撮って欲しかった」
かえって来ない返事の代わりに、自ら乱暴にベッドの上へ腰を落とし、軋みを上げさせる。鏡の中で目深に帽子を被った自分の顔は、実際の動きよりも大きく揺れる。収まってはっきりと顔が見えてしまう前に、シーツの上に放り出してしまう。赤いニットと顰め面ではなく、影が綺麗な模様を這わせる天井が表面いっぱいに映り込んだ。
閉じたも同然のカーテンは意外と分厚く、外界の音を遮断してくれる。女は腕を組み、先週会った記者の顔を思い出そうとした。太ってはいたが、日焼けしていかにも健康そうな体躯。睫の長い、全てを見透かそうとするようなエメラルドブルーのまなこ。二重顎の持ち主。その全てが病院にそぐわない男だった。灰色の小さなレコーダーを掲げ、ちょっと垂れ気味の目尻で抜け目なく観察を続けながら、彼は矢継ぎ早に問い続けた。
『何も覚えてない?』
『ここの暮らしに満足してる?』
『特別扱いされてるとか、何か不審に思うことは?』
『家族は待ってると思う?』
記憶を遡るだけで、頭が重くなる。答えなど、最初から決まっているのに、この男は何故こうも馬鹿げた質問を繰り返すのだろう。
『そんなこと、分かるわけない』
脈打つような鋭い痛みに、額を押さえた。聞こえていると思った声が本物ではないことくらい、知っている。あの男は気に食わない。この病院にいるには相応しくない。
何しろ彼は何かを引き出そうとするばかりで、自尊心の一欠すら与えてはくれないのだ。
それでも女は、彼が来ることを心待ちにしていた。今まで眠っていたはずの第六感が、胸をざわめかせているにも関わらず。絶対に自らの何かを乱すことが分かっているにも関わらず。
「私を誰だかも知らないくせに」
慢性的に傷口を覆う、腫れぼったくて疼くような痛みではない。脳全体が痺れる。小さく鋭利な波が、絶え間なく襲い掛かる。根の張った草を引き抜くようにずるずると続く、その前の時間を探ろうとするたびにやってくる苦しみは、どれだけリハビリを重ねたところで決して慣れることはない。蒸れただけではない汗が滲み出した生え際に触れ、指先に絡む湿り気を汗腺に押し込もうと強くこすりつける。細い金色の髪が縺れるばかりで、痛みは一向に治まってはくれなかった。強く歯を食いしばる。柔らかい病院食しか口にしない臼歯が、嫌な音を立てて軋んだことが、余計癇に障る。激しくなりつつある動悸が輪を描くように広がるたび、背中や胸乳に汗が湧き出た。
何も知らないくせに。
視線などないと分かっていたが、少し開け気味だった襟元を掻き合わせる。寒さではない。理解できない感情が身を苛み、苦しいほどの羞恥を呼び寄せた。
控えめなノックの音に顔を上げる。左側から殆ど身体を揺らすことなく移動してくる影はまるで幽鬼のようで、更に身を縮こまらせた。
「起きていますか」
聞き慣れた声に安堵し、手を伸ばす。毛玉が指にざらつく化繊布の向こうから、人目で高価だと分かる真っ黒なジャケットが現れた。
「気分は?」
再び広がった光が煮詰まった思考を浸食し、頭痛は嘘のように引いた。重い息をつき、声の主を見上げようと顔を上げる。思ったよりも差し込む太陽は強く、生理的な痛みが眼球を突き抜けた。
女が目を細めるのを、病院長は慈しみの眼差しで見下ろした。長身の彼は、いつでも少し身を屈めながら相手に言葉を掛ける。端整な顔立ちと相まって、物憂げな動作は時に神々しくすら見えた。もっとも彼は聖職者なので、神掛かっているのも当たり前の話なのだが。
「大丈夫」
女はまっすぐに男と視線を付き合わせ、少し笑った。
「取材を受ける元気くらいあるわ」
袖口のほつれた紺色のカーディガンは、まだ上掛けに覆いかぶさったままだった。羽織ると冷えかけていた背中の汗を知覚し、余計に薄寒さが増したような気がした。
院長は立てかけてあったパイプ椅子を開くと、まるで肉体を感じさせないような動きで腰掛けた。手にしていた旧約聖書だけが、膝の骨に当たって固い音を立てる。長居するつもりだと分かりうんざりしたが、口には出すのは辛うじて耐えた。
浮かない顔つきの女を上目で窺い、彼は気遣わしげな声を出した。
「顔色が良くありませんね」
「何でもない」
組み合わせた両手の指に力を込め、女は言った。
「ただ、苦しくて」
静かに頷きながら、男は古びた書物の表紙を撫でている。看護師はバケツを洗浄しに行ったまま帰ってこない。彼女のことなど好きだとは到底言えなかったが、今この時ばかりはあの無愛想な赤毛が恋しかった。
「取材、気乗りしないのでしょう」
静かな声に、顔を上げる。沈痛な面持ちで、院長は女の動作をつぶさに観察していた。まるで全てがお見通しだと言わんばかりの態度で。
「無理をしなくて良いのですよ」
剥げた皮に刻まれた金色の文字の上で、指先は神経質に動く。
この男は何を言い出すのだと、女は思わず眉を吊り上げた。
「でも、ファーザー」
「何なら、慰問自体を取りやめてもいい」
「平気よ」
女が懸命に首を振っても、男の気持ちが晴れることはないようだった。
「これではまるで見世物だ」
しみじみとした嘆きは溜息に絡まり、宙に浮く。
「ここを何に使うつもりだと言うのだろう。神の家に、地上の利害関係など入り込んでいいはずがない」
「だから貴方が」
うんざりとして、頭を逸らす。
「入り込まないように一生懸命やってるんでしょう」
「限度があるからね」
男は気弱に微笑んだ。
「私の力が及ばないことも……勿論、できる限りのことはやっているが」
「それじゃ、何も問題ないじゃない」
「そりゃ、私は問題がないかもしれない。けれど、父は」
唇を噛み締めたせいで、浮かべていた笑みは見事に潰れてしまう。
「この御世をお作りになったほうではなくてね。ご存知だったかな。今日来るのは、私の父親なんだ」
そんなことは病院にいる誰もが知っていたが、女は黙って軽蔑の色を浮かべ続けた。
作品名:しっぽ物語 12.野の白鳥 作家名:セールス・マン