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しっぽ物語 12.野の白鳥

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 青年は反射的に屈み込み銃把を握ったものの、立ち上がってからは、その場に足が吸い付いてしまったかのように動きを止めてしまう。



 呆然とした表情を浮かべる青年の顔を、女は簡単に記憶の底から掬い取ることが出来た。確かに彼は、女を求めていた。ベッドの中を覗き込む欲情の顔つきは浅ましかったが、隠し事など何一つなく、心から安心することが出来た。代償として身を差し出してもよいと思えるほど。
 今の彼もまた、無防備だった。傍の女性を守るようにして立ちはだかっているものの、手の中の銃は力なくぶら下がっている。
「なんだよ、ったく」
 命からがら、女の傍までたどり着いたFが、吐き捨てるようにして悪態をつく。
「王子さまのつもりか?」


 
 頭を殴られたかのような衝撃は、頭を殴られた瞬間の痛みをじかに記憶中枢へ呼び戻した。見上げた先にある長い睫と、黒い瞳。真上の照明が影を作る。モーテルの部屋で、真っ赤に染まった視界へ収めたものとそっくりそのままだった。あの時彼は、この黄色く安っぽい光を反射させる、重いランプを掲げ、なんと言ったか。眼を潰しながれ流れていた血が、今頭の中で再びぶちまけられる。
「撃って!」
 女は硬直した青年に向かって身を乗り出し、声の限りに叫んだ。
「この男を撃って!」
 焦点を結び損なっていた瞳が急速に縮まり、女の顔を確認した瞬間に動きを止める。青年は顔を引き攣らせながらも、懸命に唇を動かし、何かを紡ごうとした。だがそれを遮るよう、女はもう一度、驚愕の表情を浮かべるFの顔に指をつきつけ、はっきりと命令を下した。
「撃つのよ、私の王子さま!」
 糸で引かれるようにして持ち上がった腕が、銃を構えた。


 Rが上げた声など、火薬の爆発には到底及ばない。奇跡的に眉間の真ん中を撃ち抜いた銃弾はFの後頭部を貫通し、背後の窓ガラスを粉々に砕いた。吹き上がった血の霧が視界を覆った瞬間、女自身も頭を弾が通り抜けた感覚に襲われ、その場に突っ伏した。
「プリンセス!」
 片腕男の悲鳴と、無様な足音が幾重にも身体へ覆いかぶさってくる。



「しっかりしな」
 そのまましばらく身を横たえていたかったのに、大柄な老人が女を抱き起こした。視界の端で、仰向けに倒れるFの首を抱えているのか、締めているのか分からない手つきで掴むCが、食いしばった歯の隙間から言葉を漏らしている。
「あんたが死んだら困るんだ」
 指の力を強めながら、何度も何度も同じ文句を繰り返す。
「あんたは馬鹿だから、死なれちゃ困る」
「どいて!」
 医師がCを突き飛ばし、その場にしゃがみ込む。右手で瞼を捲り上げ、反対側の指を首筋につける。しばらくその姿勢で動かなかった頭が、ゆっくり振られたのは、Rに詰め寄られた青年が言い訳を終え、駆けつけた職員に羽交い絞めにされた後だった。
「女を撃つつもりだった!」
 青年は必死で訴えた。
「あの女は悪魔だ!」
 廊下を引きずられながらも、まだ金切り声を上げている。もがき暴れながら、必死で伸ばそうとする手を、差し出された車椅子の女性は見向きもしなかった。やがて彼女も、看護師に連れられ元来た方向へ去っていく。声を張り上げ続ける青年の顔は真っ赤に染まり、涙と鼻水で元の形が分からないほど汚れていた。
「違うんだ! 今でもずっと、君の事を愛してるんだ!」



 青年の悲鳴が後を引く中で、医師は顔だけの神妙さで、ゆっくりと立ち上がった。その場で棒のように立ち尽くす院長の肩に手を乗せ、わざとらしいほど悲しげな声を作る。
「ここから先は君の領域だ」
「出来ません」
 吹き荒ぶ風のような虚ろさで、院長は言った。
「出来ない。私は、聖職者に相応しくない」
「そんなことは」
 いつの間にか傍にやってきていたGが、真っ黒なジャケットの肩に手を伸ばそうとする。
「B」
「あんたのせいだ!」
 突如感情を爆発させた院長は、間にある遺体を蹴飛ばしながらGに詰め寄り、スーツの襟元を捻りあげる。流れ出た血に塗れた靴で床を踏みしめ、これまで誰も見たことのない怒りを、包み隠さず叩きつける。
「私はあんたたちの罪が許されるよう、毎日祈り続けてきた! それなのに、私自身が罪から出来た人間だなんて!!」
 いつもは人形のような白さを持つ肌が高潮し、目尻に涙を浮かべながら、声を限りに叫び散らす。
「こんな恐ろしいこと、神が許すはずがない。私は救われない。あんたたちも地獄に落ちる。みんな一緒に業火で焼かれるんだ!」
 シャツを引き裂かんばかりに握り締めていた掌の力が抜け、崩れるようにしてその場にへたり込んだ彼の顔もまた、滂沱の極みを尽くしていた。靴だけではなく、スラックスもジャケットの裾も、じわじわと範囲を広げつつある赤黒い血に染まっていく。足元で泣き咽ぶしかできない息子を、Gはただ呆然と見下ろし続けていた。



 重い安全靴が床を叩き、屈強な警備員が二人室内に駆け込んでくる。彼らは床に座り込んだままのOを引っぱり立たせると、傍の医師に一言二言話しかけた。医師が首を振って指をさせば、そのまま両脇から細い身体を挟みこみ、室内に連れ出そうとする。
「待て」
 それまで茫然自失でしかなかったLが、確固たる声で引き止める。俯いていたOが空虚の表情で顔を上げる。


 Lはよろめきながら、Oの正面まで回りこんだ。すっかり髪は乱れ、血の気などとうに失っていたが、蒼瞳は確かに眼の前の顔を捉えていた。向けられるOの黒い瞳から決して眼を逸らすことなく、彼はただ見つめ続けていた。
やがて開き気味の唇から言葉が零れ出したとき、彼の目尻はもう度重なる衝撃と疲労のあまり、感情を偽ることができなくなっていた。
「おまえ、俺の息子なんだな」
 その表情を目にし、言葉を耳にしたOは、目に見えるほど青ざめた。
 警備員達が目配せをし、彼の華奢な肩を掴みなおす。
「違う」
 震える唇が続きを紡ぐ前に、彼らはその身体を部屋の外へ引きずり出していた。
「違う、あんたなんか父親じゃない」
 姿が見えなくなるその瞬間まで、凍りついた瞳はLの顔に吸い付いたまま離れようとしなかった。
「やめろ! そんな顔するな!」


 
 更に何かを語ろうと足を動かしかけたLの腕を、Rが引き戻した。
「今はやめておけ」
「本当に」
 Dも首を振り、庇うように押さえていた腰を拳で叩いた。
「もう少し頭を冷やしたらいい」
 それから、傍らにて苦虫を噛み潰した顔で押し黙るCへ唇を吊り上げて見せた。
「あんたもな。傀儡政権の夢が潰れて、残念だったな」
「息子が駄目なら直接その地位につくまでさ」
 ぶっきらぼうに言い捨て、血だらけの手をDの悪趣味なジャケットへなすり付ける。
「なんにせよ、お前はクビだよ。不穏分子と関わってた」
「どうだかね」
 Dは肩を竦めた。
「もしかしたら、誰かが引き止めてくれるかもよ」



 全てはまさに他人事。女はようやく、男の腕から身を起こした。全てが水槽越しに眺めているかのように味気ない。誰も、自分を見てくれる人はいない。ここにはいない。