深く眠りし存在の
「やっと俺の番か。あの女、今度痛い目に会わせてやるぜ」
松本は座っている椅子ごと後ろに引いて、咳払いをした。
「あの女、とは?」
「明理に決まってんだろ。俺を押し退けやがって」
「コホン、名前と歳を教えてくれるかな」
「名前ェ? そんなもんないよ」
低音の男声を発し、右手で作った拳を左掌にゴリゴリさせて、口辺を綻ばせているが、斜交い(はすかい)に相手を射すくめるように睨みつけてくる。
「だったら君のこと、なんと呼べばいいのかな」
「そうだな・・・勇者の勇で、いさむ、てことにしとこうか」
「じゃ、勇君、歳は」
「歳かぁ、さあて・・・わかんねぇ。明理にでも聞いてくれや」
「君は、いつ誕生したんだい」
「つい最近じゃねぇか。恵津子がしつこい男に連れて行かれそうになったからさ、一発ぶち込んでやったぜ。ククッ、奴、アホ面して見てやんの。も一発、やっときゃよかったかな」
「君かい、たばこ吸ったのは」
「そうさ、たばこ吸ってもいいのかい、ここ。たぶんダメだろう思って我慢してんだけど」
「病院は禁煙だ」
「フン。ここは病院、てな雰囲気じゃないな」
10畳程度の診察室には机の他ソファが置かれ、気持ちを落ち着かせるような、緑色のみずみずしい植木が配置されている。明るい陽光を取り入れるための窓からは、年中何らかの花を目にすることができる。
「君たちは、お互いの存在を知っているのか」
「明理が言ってた、房枝、てのは知らなかった。ちびは時々、テレビでマンガ見てやがる。ま、俺達はお互いのことが分かるが、俺達のことを知らないのは、こいつだけだろ」
「それで、恵津子君は苦しんでいるんだ。あとは房枝君なんだけどね。呼んでもらえるかな」
「俺は知らねぇが、明理が言ってたんだろ。目を覚ますと大変だって」
「何とか出来る、私は医者だからね」
「治療するって、どういうことなんだよ。俺達を消してしまうってことかよ、や、だからね」
「それは違う。それぞれの人格は、ひとつとなっても生きているんだ。今のように出たい時でも出ることが出来ない状態ではなく、ひとつの人格となって、考え行動することができるんだよ。私がこの症状に直接関わったことはないが、助手としてその治療を見ていたからね。まずはそうだね、お互いの信頼を、確かなものにしなければならない」
勇は相変わらず不貞腐れたようにして、斜交いに睨みつけている。
彼の信頼を得ることができるだろうか、と松下は不安を覚えた。
「今日のところは、現在どのような状態にあるのかを、把握しておきたいんだよ。治療を始めるにあたっては、各人格の了承を得て、それぞれに納得してもらわないと、うまく進められない。代わって、もらえるかな」
勇は「チェッ」と舌打ちをして、目を閉じた。
目を開いた恵津子にうなずくと再度額に手を当て、「房枝君、出てきなさい」と命じた。
顔を見た瞬間、明理だと分かった。
「明理君、だね。房枝君を起こしてくれないか」
「話は聞いてたよ。恵津子の為になるなら、仕方ないかな。ま、会ってみなよ」
目を閉じた明理は恵津子と交替し、再び恵津子に対して同じことを繰り返した。