深く眠りし存在の
同じ団地に住んでいる、千尋と同い年の子どもを持つ母親から連絡を受けた雄介は、恵津子の帰りを待っていた。
その母親は恵津子から、夫である雄介の勤め先を井戸端会議の折に聞いていたので、会社名はうろ覚えであったが、電話番号をわざわざ調べて当たってくれたのである。
クライアントの会社に出かけて打ち合わせ中であったにもかかわらず、自社から連絡を受けたために途中で打ち切って飛ぶようにして帰宅した雄介は、千尋を受け取りに寄ったその家で、恵津子と男との諍いの様子を聞いた。
恵津子は見知らぬ男――「たぶんね」、と彼女は付け加えた――から声を掛けられて少し言い合っていたようだが、恵津子がその男にゲンコツを振るって難を逃れた後、ふたりとも、別々にその場を立ち去って行く一部始終を、ベランダから、好奇心をそそられ聞き耳を立てて見ていたのである。
「いえね、ちょうど洗濯もんを干してたんですよ」
小声で言った後胸を反らせて続けた。
「ほしたら、千尋ちゃんをベビーカーに乗せたままひとり置いて行かはるんやから、びっくりして下りて行ったんですよ。ひっくり返りでもしたらえらいこっちゃ、思うて。しばらくそこで、待ってたんですけどねぇ。日差しも強うなってくるし、いつ戻らはるかも分かれへんし、うちの子家に残したままですし。そやよって、うちに連れ帰ってご主人に電話さしてもらいました」
何度も礼を述べて、部屋に連れ戻ったのである。
鍵が開けられる音に、雄介は玄関に出た。
雄介の姿を見た恵津子は両手を口に当てて、目を瞠っている。千尋の泣き声が聞こえてくる。すぐに気を取り直し、「お帰りなさい。今日は早いね」というと、そそくさと台所に入って行った。
「お昼、まだ?」
と、くぐもった声が届いた。
「恵津子は、もう済んだんか?」
「はい、ううん、なんか、食べる気がせえへんから」
「じゃ、いい。千尋、腹すかしてるみたいやで。おむつは俺が、取り換えといた」
「すみません。すぐミルク、あげるから」
哺乳瓶を手に千尋のところへ行った恵津子は、雄介の方には顔を向けずに、「おなかすいたでちゅね」と優しく抱き上げた。
口に含んで夢中で吸っている満足げな千尋を見ながら、雄介はそばに腰を下ろし、咎める視線を送った。
「どこ行ってたんや、千尋、ほったらかして。しかも外にやぞ。北村さんが会社に電話くれたんや・・・お前、たばこ吸うてんのか」
「まさか、たばこの臭いだけでも嫌やのに」
「煙草の臭いが残ってんで。誰かと、おうてたんか」
「それが・・・」
恵津子は言い淀んだ。雄介は黙って顎を振って、先を促した。
「ごめん、自分でもよう分かれへんのん。千尋をベビーカーに乗せたんまでは覚えてるんやけど・・・外をどうゆう風にぶらついてたんか、さっぱり」
「お前、疲れてんかもな。夜中に千尋が泣いとっても、突っ立ったまま黙って見下ろしてるだけの時もありゃ、ひどい時にゃ、姿がどこにも見えん時もある。しゃぁないから、おむつ見たりあやしたりしてたんやけど。ミルクは分からんから、ようやらんかったわ」
「ごめんなさい。最近頭痛が激しいて、何をしてたんかも、覚えてないことが多いんやわ」
消え入りそうな声で謝った。
「ま、とりあえず、会社に戻るわ。ほっぽり出してきたんやからな、お得意さんとこに行ってたところを。謝って、もぅ一遍、やりなおしや」
「すんませんでした」
「今日は泊まりで仕事片づけるよってに、食事はいらんで」
雄介は上着と鞄を手に取ると、縦抱きにされて背中を軽く叩かれている千尋に、「行ってきまちゅよ〜」と顔を寄せて、ふわふわのほっぺたを軽くつついた。
千尋は雄介の顔に乳の匂いのするげっぷを吐き付けて、口からミルクを垂らした。
買い物に行く時にいつも携えているポシェットを開けた恵津子は、その中にたばこの箱が入っているのを見つけて、愕然とした。買った覚えも、ましてや吸った覚えもないのに、封が切られている箱が、確かにある。しかも、安もんのライターまで。
しばらくそれらを手に取り見つめていたが、ポシェットに戻すと洋服ダンスの所まで行き扉を開け、かかっている服を荒々しくひとつずつ改めた。服をかき分けて、底板の奥の方も確認した。
そこに見つけたのは丁寧に畳まれている衣類と、一緒に置かれているハンドバッグ。いずれも、始めて見る品だ。広げて見ると、おしゃれな白色のチュニックと薄緑色のカーディガン、そして黒いズボン。
それらを手にしたまま、その場にへたりこんだ。
自分の持ち物ではない、それら。無論自分で買ったわけでもない。だが・・・恵津子には思い当たることがあった。
――この先、千尋に何かあるようなことにでもなったら・・・。
メモを残していたノートを捜し出すと、意を決して電話をした。