深く眠りし存在の
約束の時間に少し遅れて到着した。
それほど広くない広場では、前回の倍近い人たちが地面に座りこんでいた。立っている者は、藪蚊を気にすることもなく草むらの中に入り込み、立ち木にもたれている者もいた。広場に入りきれない人たちは、下の道路にもたむろしている。
前回房枝が祈祷した時から2週間以上空いているが、昔から1日に1回のみ、ひとりだけが祈祷を受けられたらしい。そのためなのか、今日は自分が指名されるようにと、早くから場所取りがなされていたようなのである。
仕事を休んでまでやってくる多くの人々を見て、房枝は心動かされるものを感じた。しかしやはり、自分の平穏な暮らし、大阪での家族との暮らしを守らねばならない、と思った。
雄介にはまだ話していない。自分は祈祷師だ、なんてゆうことを、どのように伝えることが出来ようか。自身がまだ信じられないでおり、平凡でも普通の生活を願っていたからである。
房枝は人々をかき分けて、祠の前に向かった。人々は、そばを通りゆく房枝に向かって手を合わせている。松本は、すぐ後に従うようにして歩いていたが、広場にさしかかる前に行き手を遮られて、房枝に続くことが出来なかった。あたりを見渡し、正面が良く見える広場の端の方へ移動して、そこに聳えている木のそばに立った。
房枝は、母によって引き開けられた扉の内に入って行った。松本からは中の様子は窺えない。
しばらくすると房枝が・・・榊を振りかざした白い装束の女が、舞い踊りながら出てきた。
顔の造作は、今までに会った人格の誰とも違っている。房枝が言っていた通り、キツネに似てもいる。そしてそこにはまさに、想像していた通りの祈祷師がいたのである。幽体離脱しているとゆう房枝を感じることができるだろうか、とその周辺をも凝視し続けた。それは虚しい所業であると、分かっていたのだが。
手を引かれた白髪の女性が祠の前に進み出て、突っ立った。両手を前に泳がせている所作からみて、視力が悪いものと思われる。
誰もどこが悪いとも言わず、すべてが無言のままで進行していく。祈祷師となった房枝は、悪い箇所を確認するでもなく当然のごとく、水を滴らせた榊をその女性の顔の前で、顔に触れんばかりに左下から右上、右下から左上にと、数回振った後、舞い踊ること数分。やがて、祠の入口に腰かけた。
松本はその間にそっと、祠の横手に回っていた。集まっている人々は、目を閉じ両手をこすり合わせて拝んでいる者、額を地面にこすりつけている者などで、自己陶酔しているのか、そこで繰り広げられている様子を誰も、詳しく見ていないようである。扉の近くにいる女性、おそらく房枝の母親だけが、祈祷師の動きを追っていた。
松本は、それらの人々の表情、祈祷師の所作などを記録するために、手に持っている小型ビデオカメラを作動し続けた。
耳をつんざく蝉の声。
白髪の女性はおもむろに瞼を上げ、何度もまばたきを繰り返して周囲の明るさに目が慣れてくると、息を大きく呑み込んだ。両手で口をふさぎ、周囲の光景を確かめるかのごとく、ゆっくりと頭を巡らせた。涙を流しているのが見て取れる。視力がどの程度回復したのかは分からないが、今まで見えなかった世界が目に飛び込んできて、感動しているに違いない。祠の入口に座ってニタついている祈祷師に向き合うと、いきなり体を投げ出すように跪き、「もったいない、ありがたいことで」と何度も口ずさみ、手を合わせて拝んだ。
松本はその光景を、呼吸するのも忘れたかのように凝視していた。ビデオカメラを持つ手は無意識に下がり、呆然として突っ立ったままである。頭の中ではいろいろな可能性を巡らせていた。だがすぐに気付いて、ビデオカメラをそこにいる人たちに向けた。
人々が散って行くその様子を、松本は祠の後ろに隠れて見ていた。
気を失っている房枝は、最後に若い男に抱きかかえられるようにして祠から連れ出された。母親とおぼしき女性が風呂敷包みを抱えて、続いて去って行った。