深く眠りし存在の
激痛に耐えられず意識が遠のきかけた時、頭痛から突然解放されてスーッと体が軽くなり、ふわふわと空中を漂っている感覚がした。目を開けてみると、先ほどまで、確かに自分自身がいた場所に、赤い着物を着たキツネ顔の女が立っていたのである。正面に坐している像とよく似た、細くつり上がった目。両端がやや持ち上がった薄い唇をし、微笑んでいるとゆうより、ニタついているとゆう表現の方が近い表情をしている。
キツネ顔の女は自分の着物をはぎ取ると風呂敷包みから取り出した白い着物をまとい、正面に活けられていた榊を取り上げて、ニタリと笑って舞い始めた。
扉の外に目を向けると、母は扉の陰にひき、父は階段の下で、集まっていた人々もその場で跪(ひざまず)き頭(こうべ)を垂れている。
キツネ顔の女は扉から外に飛び出すと板廊下の上で、脚を交互に膝高く挙げ、くるりと回り、あるいは空中に跳び上がって回り、しゃがんで前かがみになったかと思うと、勢いよく榊を持った手を上に突きあげ跳び上がるようにして体をそらしたりと、激しく舞い続けた。
「オオーッ、三狐神(みけつのかみ)様じゃ、まさしく三狐神様じゃ」
「ほんまもんのサグジ(三狐神)様が降りられた、ありがたや〜」
「やっと、ほんまのオキツネサマが戻って来られた」
人々は、特に年老いた者たちは額を地面にこすりつけ、両掌を頭の上でこすり合わせて拝み、口々に言葉を発した。
房枝は幽体離脱した意識の中で、その光景を呆然として眺めていた。そこにいるキツネ顔の女は自分自身の身体であることを理解しているのだが、全く信じることのできない出来事である。
――まだ別の人格が存在していたのか・・・だけどあれは、まさしくキ
ツネ、のような。動物の人格が?・・・まさか・・・祠の神さん?
一方、母ひとりが扉の陰から唇を噛みしめて、その光景を凝視していたのである。
やがてキツネ顔の女は、扉口の敷居の壇上に片膝を立てて座った。激しく舞い踊っていたにもかかわらず、息を切らしていない。片方の口角を上げて、前に居すわる人々を睥睨している。
母が扉の陰から姿を現し、人々が座っている中の一集団に向かって手をあげ、「これへ」と、階段下の位置を指し示した。
指された者の一団は中年の女を抱えるようにして、指し示された位置にまで来て跪いた。中央に足を投げ出して座らされた中年の女は、後ろで息子に支えられながら悲痛な声で訴えた。
「サグジ様ぁ、ワシの足を治してくだされ、痛くて歩けんのです」
サグジと呼ばれたキツネ顔の女は、跳びはねるようにして立ち上がると、同じようにして舞いながら正面に坐する像の前まで行った。祭壇に供えられている水の入った広口の器を取り上げ、捧げるようにして中年の女の前まで行くと、横たわるようにと動作のみで指示を出し、榊を器に浸して水を滴らせたまま中年の女の足をひと撫で、ふた撫でした。
そばに器を置くと、榊を持って再び舞い出した。先程と同じように、同じぐらいの時間舞い続けると、敷居の上に片膝立ちで坐した。
蝉の、高く響き渡る鳴き声だけが、辺りを包み込んでいる。
中年の女はそばにいる息子に上体を起こすようにと囁き、その手を借りて足を曲げて立ち上がると、恐る恐る膝を少し上げた。一歩を踏み出すと、介添え人の手を振りほどいてさらに一歩。周囲の息をのむ様子を意識してまた一歩。ひとりで歩いたのである。介添えなしで。
「まだ痛みはあるけど、歩けるんだ!」
ゆっくりとその場で足踏みをして確かめた後、息子ら介添えしていた者たちと抱き合い、「ありがたいことで」と何度も言い合い、祠の内に向かって何度も深々と礼を捧げると、元の場所へと足を引きずりながらだがゆっくりと、誰の手も借りずに歩いて戻ったのである。
そこここから感嘆の声が湧き起こり、蝉の声を再び掻き消した。
その女性をよく知る人々は、「よかったのぅ」と声を掛けそばを通りゆく女性の足を触れさすると、一層熱心に手を合わせて拝み出した。
扉のそばに立っている母も、信じられない、といった面持ちで息を詰めて見つめている。
そして誰よりも驚いたのは、幽体離脱したまますべてを眺めていた、房枝自身であったろう。
キツネ顔の女は、ニタリ、とすると祠の中に入り、白い着物を脱いで元の成りに戻った。