深く眠りし存在の
畑に行くのだろうか、大きな籠を手に、手拭いで頭を包んだ女性が納屋の方から現れた。髪は染めているが、よく日焼けした顔には深くしわが刻まれている。石垣に付けられている緩い坂を、幼女の手を引いて上がって来る人物を捉えると足を止め、腰を伸ばし腹を突き出して丸い背中を少しそらせた。
誰じゃろうか、と訝しげに見つめている。
女性の前で立ち止まり帽子を取ったその顔に・・・彼女は、何人もの名前を思い浮かべているようだが、まだ分からないらしい。
「お母ちゃん」
そう呼びかけられてもまだ訝しげに思案しながらも、思い当たる人物の名を口走った。
「お前? 房枝か」
笑みを浮かべてうなずき、手を強く握りしめていた千尋を前に押し出した。
「お母ちゃん、千尋です。お母ちゃんの、孫」
母は目を剥いて素っ頓狂な声を上げた。
「房枝! おまぁ元気じゃったんか。それに、んまぁ、おぼこい孫までこさえとったんかいにぃ。ま、とにかく、うち入れ、停留所から歩いて来たんじゃ、喉渇いたろ」
母屋の玄関に入ると籠を土間の隅に放り出し、ふたりを茶の間に誘(いざな)った。
房枝はボストンバッグを上がり框に置くと千尋の靴を脱がせ、土間に続く台所を見渡した。
記憶に残っている竈(かまど)はもう使っていないらしく、周辺は綺麗に整頓され、ガスレンジが設(しつら)えてあった。板の間にあった小さな冷蔵庫は大型になっている。ボストンバッグから土産の品を取り出し、「お花はここに置いておこうね」と、千尋がしっかり握っている草花を板敷の上に寝かせると、座敷に上がった。
母は冷蔵庫から取り出してきたお茶をコップに注ぎながら、座るふたりに交互に視線を投げかけてくる。
「連絡もなしに・・・じゃがお前、変わったなぁ。顔つきが別人のようだ。いろいろあったんだろうが、とにかくゆっくりしろや。どれ、千尋ちゃん、やってか。いくつかなぁ」
房枝の横でかしこまっている千尋のそばににじり寄って、「こっちこぉ、ばぁちゃんやで」、両手を差し出した。
千尋は房枝を見上げてから立ち上がり祖母の手の中に入ると、指を3本立てて「ちひろね、みっちゅ」と、物おじすることなく言った。
「そうかそうか」とにこやかに、目にうっすらと涙をにじませながら、千尋を胸に抱きしめ頭を撫でさすった。
「お父ちゃんは?」
嫌な思い出は封印しておくのだ、生まれ変わった自分は新たな気持ちでここの人たちと付き合っていくのだ、という思いを抱いて帰って来たのである。
「農協、行っとる。そこの仕事、手つどうとるんや。今は機械化が進んでな、田んぼも昔ほど人手がかからんようなっとるし、近所のもんらが手つどうてくれよるんや。それよりお前、ここ飛び出してからどこで暮らしとったんや」
膝の上に千尋を座らせ、前後左右にゆっくりと体を揺らせながら問いかけてきた。
「ん、大阪。今は今村、ゆうねん。旦那は、雄介。会社員。2、3日帰って来る、ゆうて来た」
会話はそれ以上続かなかった。お互いに相手の心中をおもんぱかって警戒心が働いていたのかもしれない。
ふと思い出したかのようにしてそばに置いていた土産の品を、「これ、昆布の佃煮。おいしいよ」と、卓袱台の上に差し出した。お互いに話すべきことは山ほどあっても、わだかまりもあり、何から話せばよいのかが分からないのだ。