深く眠りし存在の
第2部
山間(やまあい)にある集落の道。
ひび割れてガタガタとなっているセメント道の片側にはせせらぎが走り、それにそって見渡す限り、すっくと立つ青々とした棚田が続いている。その間から、低くこもったカエルの声が短く聞こえてくる。
麦わら帽の幼子は何度も、繋いでいた手を振りほどいて駆けて行っては、蝶々が舞っていたあたりの道端にしゃがみこんで、可愛らしい花を摘んでいる。母はそのそばを、微笑みを投げかけながらゆっくり通り過ぎるが、しばらくすると駆けて来て再び手を握り、摘んだ花を突き上げて嬉しげに見せてくる。
赤色や黄色や青色や白色の、強く握りしめられている小さな花々は、すでに頸を垂れてしまっているものが混じっているのだが。
冷気を含んだ風が時折、そよと体を包み込んでくれるが、それでも日向に出ると汗がじっとりと浮いてくる。片手には大きなボストンバッグを提げて、もう一方の手に持つハンカチを顔に当てがう。
山が大きく引き込んでいる所に時々現れる建屋。納屋とトイレがすぐ脇にあり、母屋との間には切り揃えた薪が積んであった。
庭に停まっている軽トラックの荷台の脇に立っている女が、動作を止めてじっと見つめてきていたが、視線が合うとニコッとして頭を少し下げた。誰だろうと、記憶を探っている様子である。同じようにして挨拶を返したが、見覚えがない。おそらく嫁いできた者だろう。
集落の最奥となる家の手前で立ち止まって、見上げた。
いつの時代のことか知らぬが山の斜面を削り、石垣で固めた上に建っているその家は、今まで通り過ぎた家々より立派な造りをしている。納屋とは別にある土蔵は、母屋の奥にあって見えない。母屋の左手には牛小屋があり、牛小屋のすぐそばにトイレがある。土で固められている広い庭には、石垣のすぐ上あたりに数本の木が植わり、その横に花が揺れている。牛はこの時間、ここへ到るまでに遠くに見えていた放牧場で草を食んでいる。
房枝が恵津子となって家を離れていた間も、さして変わり映えせずに時が過ぎ去っていたようである。いや、人にはそれは当てはまらないということをすぐに知った。
10年近い時を経て見る母は、それ以上の時の隔たりを感じさせたのである。